/0
後ろに下がる。「それ」から逃れるために。
といっても、両手両足全てがだらんとしていて全く力が入らないから、尻餅をついたまま身体をすこしずらした程度の動きしか不可能だった。
体が重い。思うように動かない。
就職してからは運動する機会が減ったとはいえ、週末にはテニスにも行く事のある彼の身体は同年代の友人達に比べても引き締まっている。男盛り……体力には自信があった。
だが―――だからなんだというのだ?
引き締まっていようが、いまいが。強かろうが、弱かろうが。男だろうが、女だろうが。
なんの違いもない。
『それ』は平等に訪れる。
「あなたは今死ぬわけだけど、その前に一つ頼みたいことがあるのよ」
目の前に立つ人物がいったいどんな存在なのか、暗闇の中で彼に知る術はない。
ただ、その人物が手の中で弄んでいる歪なナイフの刃だけが、上弦の月のように鈍く光っている。
「別に難しい事じゃないわ。それに時間の掛かることでもない。今すぐこの場所で出来ることなのよ」
血が、抜けていく。服が、ズボンが、べちょべちょに濡れているのが分かる。
呼吸が荒く、しかし弱々しくなっていく。
それでも彼は希望を捨てては居なかった。
映画ならばこんなシーンで主人公は一発逆転の何かを考えつく物だし、マンガならばあるいはヒーローなどと言う物が登場してくれるかも知れない。
「私のお願いはただ一つ。いい? 私の名前を、聞いて」
―――思わず、苦笑しそうになる。
自分は狂ってしまったのだろうか? まさか自分から名乗りたがる人殺しが居るわけない。
これは……夢だな。
「……あんた……誰だ?」
夢なら……さっさと醒めて欲しい……。
目の前の人物は、酷く嬉しそうな口調で答えた。
「シキ……私の名前は両義、織」
ス――――
次の瞬間には、まるで手品のようにナイフが彼の身体から生えていた。
声もなく、そこで彼の意識は途絶える。
「ありがとう。一度言ってみたかったのよ『冥土の土産』ってやつ」
ソラ
「 空 の境界 〜 the Million Stars, and Dreams...」
/1
早朝、大輔さんにたたき起こされた。
夜勤だったらしくなんだかひどくやつれた様子の大輔さんに朝食の準備をする。大したメニューがあるわけでもないので、おなじみの食パンとベーコン&エッグくらいだけれど。
「殺人事件……また?」
「あぁ、まただよ」
チクショウと悪態を吐きながら牛乳を一気に飲み干す大輔さん。本当ならお酒でも飲みたい所なのだろうけど、朝食を摂ったらすぐに仕事に戻らなければいけないらしい。
「それで? 殺人事件ってどういった?」
「ガイシャは三十歳の男性会社員。繁華街の裏路地でこう―――」
と、自分の両肩、両太股を手刀で叩く大輔さん。
「何故かしらんが、ばっさりと両手両足を斬りつけられてたんだよ」
「両手両足を? ……それって……」
「覚えてたか? もう五年近くも前の事件なんだが、まぁ確かにあんなショッキングな事件は忘れるに忘れられないか」
忘れられるわけがない。式が眠りにつくきっかけとなった事件。白純先輩が起こした連続殺人事件。
世間的には麻薬中毒者が犯した事件として一時期大きく騒がれはしたが、今はもう過去の出来事として「あぁそんなこともあったか」程度にしか覚えられていない。
だけど僕は、一生忘れることはないだろうと思う。僕とそして式の人生に大きな影響を与えたあの事件を。
「あの事件の一人目の被害者、両手足を切り落としてそのまま放置したあれと似たような感じだな。といっても、あの時みたいに本当に切断されていたんじゃなくて、ただ切り刻まれていただけだったけどな」
人間の手足を切り落とすのは非常に難しい。鋸なんかでギコギコと時間をかければ何とかなるけど、それをナイフでなんて普通出来ない。それが出来たのは白純先輩が……普通では無かったからだ。
「それじゃあ、この事件は……」
「まだはっきりとはワカラン。ただ単純に抵抗されないためにしたのかもしれんし。あるいは被害者に苦痛を与えるためのものかもしれんし。だが、おまえの考えているとおり模倣犯という可能性もなきにしもあらずだ」
模倣―――模倣犯とか模倣事件とか言われる、その名の通り「マネ」をした事件の事だ。
単純に犯行方法をマネする者から、犯人の思考や趣向までコピーし、あたかも自分がその犯人になったかのような行動をとる者まで、その幅はかなり広い。
「でも、あの事件の詳細は秘密にされてたんじゃ?」
「一応詳細は公にされてはいないんだが、なにせあれだけ異常な事件だろ? どうしてもその手のマニア連中のアンテナにひっかかっちまうのさ。噂だがインターネットなんかのホームページとかいうやつで色々情報が流れていたらしい。可能性はある」
徹底的にアナログユーザーな大輔さんの口からインターネットなんていう言葉が出てきたことに少し驚きながら、焼きたての食パンとベーコン&エッグをテーブルに置く。
大輔さんはそれを餓鬼のように貪り食い、
「今んとこマスコミには変な想像を招くような報道や発言をしないように口を閉じさせてるが、いつまで保つか……。今はまだこう考えている奴はほとんどいないし上の連中もただの通り魔殺人だと思ってる。ただ模倣かどうかは関係なく殺人鬼の再来かと騒がれるのは時間の問題だな。ったく、この街は何か呪いでもかかってるのか?」
なんて半場やけくそ気味の勢いで牛乳を飲み干した。
全然噛んでないのを注意すべきかとも思ったけど……とりあえず続きを聞こう。
「目撃者もいなかったの?」
「それがサッパリ。犯人が用心深いのか、ただ運がいいのか、目撃者はおろか被害者の犯行前の足取りまでハッキリしないんだよ。おまえの方でも、なんか情報を探しておいてくれよ」
「はいはい。で、被害者の死因は? やっぱり出血多量? ショック死?」
「いや、心臓を一撃、だ。鮮やかなもんだぜ。両手足の傷口といい、教科書に載せたいくらいの見事さだったよ。あれをやった犯人は医者か、そうでなけりゃあ根っからの殺人マニアだな」
そう言うと、大輔さんは最後の一切れを飲み込み、三杯目の牛乳を飲み干した。そしてそのまま口も拭かずに家を出ていった。
「おはようございます」
事務所に着くとそこにはすでにトウコさんと式がいた。
橙子さんは特に何をするわけでもなく煙草をふかし、式もまた何をするわけでもなく窓際のソファーに腰掛けて外を眺めていた。
事務所内にはTVもラジオもステレオもあるのだがそれらが仕事を果たす機会はほとんどなく、いつも陰鬱なくらいの静寂が部屋の中に満ちている。
「遅かったじゃないか、黒桐」
「すみません。今朝ちょっと用事がありまして」
「用事というのは今朝のニュースのアレか?」
さすがは橙子さん。よくわかってらっしゃる。
大輔さんを見送った後、僕は独自のネットワークを使って事件の詳細を集めていたのだ。といっても、事件が発覚してから間もなかったのであまり有益な情報は入ってこなかったけど。
朝一番のTVニュースでは随分と騒がれていたけど、大輔さんが言っていたように情報規制されているらしくて、単純に通り魔殺人としか発表されていなかった。
わかった事と言えば被害者が大柄の男性で、しかも正面から襲われていることくらいか。
「物好きだな」
それまで黙っていた式がむすっとした表情で冷たく言ってきた。
「酷いな。君は気にならないのかい? 式、この街で起こった事件なんだよ?」
「ならないね。バカの相手をするのはバカだけだ」
暗に僕のことを馬鹿だと言っているのだろうか?
たしかに、僕自身もあまり賢いことをやっているとは思っていない。でもやっぱり気になるじゃないか。
「ふむ。だがな黒桐、今回のは手をださん方が良いと思うぞ」
「驚いた。橙子さんが他人の心配をするなんて……」
皮肉ではなく本当に驚く。しかしそう言った僕に対して橙子さんは表情を変えぬまま手に持った煙草でデスクの上の電話を指した。良く見ると留守番電話にメッセージが入っていることを示すボタンが赤く点滅している。
「聞いてみなさい」
なんだか……すごく嫌な予感がする。だけどまさか聞かないわけにもいかないので、恐る恐る点滅するボタンに指を伸ばした。
『ピッ、――――兄さん。またそちらでなにやら面倒な事が起こっているようですが、今度こそは絶対に顔を突っ込まないでくださいね。もし約束をやぶったら絶対に許しませんから。二度とその足で出歩けないようにして差し上げます。いいですね? 兄さん。絶対ですからね!? ガチャン! ――――ピーッピーッピーッ』
あぁ、やっぱり。電話越しでも殺気を感じさせる声は自分の妹の物ながら心底震わせてくれる。
「鮮花は本気だぞ。今度という今度はおまえの膝を砕きかねないなぁ」
「そんな恐ろしい事、楽しそうに言わないでくださいよ」
「だが本当のことだろう? 私としてもおまえのような優秀な(便利な)スタッフを失うのは惜しいからな」
「ですけど……大丈夫なんでしょうか? この手の事件は捕まらない限りいつまでも続きますよ?」
「だからその警察が捕まえるだろ。どうせどこかのヤク中がバカやっただけなんだろうから」
式のつまらなげな言い方に、それは違うと思う……と言おうとして、彼女達がこの事件の詳細を知らない事を思い出した。
「そうだったね。式は被害者の死に方を知らないからそんなことが言えるんだ」
「心臓を一突き、だろ? ニュースでやってたよ。たしかにヤク中にしちゃ出来過ぎてるけどさ……」
「違うよ、式。確かに致命傷になったのはそれ。でもその前に被害者は傷つけられているんだよ」
「ほぅ、確かにあのニュースを見た限りでは何か他にもありそうだったが……」
「こう―――両手足の根本に傷があったそうなんです。まるで手足を切り落とそうとしたかのような」
ピクリと一瞬、式の肩が動くのを僕は見逃さなかった。どうやら彼女もあの事件の事を強く覚えているらしい。
「馬鹿げてる。たまたまだろ」
「でも―――」
「それじゃあ、なんだ? 白純みたいな奴が他にもいるかも知れないって事か?」
「それは……わからないけどさ」
でも、もしそうなら……。
君が狙われることになるんだよ? 式―――
「なんだ、心配性だよオマエは」
「でも、白純先輩みたいな人だったら……君はもう……」
式はもう人を殺せない。次に人を殺してしまったら、もう彼女は人間ではいられなくなってしまう。
そんな事は絶対に―――駄目だ。
「だからおまえは心配性だって言うんだ。私の事なんかどうでもいいだろう? それよりも自分のことを心配しろよ。おまえはただでさえイカレた連中に好かれやすいんだ。いつもみたいにボーっとしてると今度は左目どころの話じゃなくなるぜ」
「ボーっとしてる、は余計だよ。でもありがとう。心配してくれるんだね。なんだい、式も人のことは言えない、心配性じゃないか」
からかうように言うと、案の定、「勝手にしろ!」と怒鳴ってそっぽを向いてしまった。
「そういえば、所長はどう思いますか? この事件はやっぱり……」
「さぁね、荒耶が残していったやっかい事はだいたい片が付いたとは思うが……確かにあまり無関心であるのは危険かも知れない」
「関係があるって事ですか?」
「そうは言っていない。だがね黒桐、この世界には因果律というやっかいな代物が存在しているんだ。普段意識することのない方向性―――白純の時に話しただろう? 自らの根元衝動は意識しない限りは害のない物だが、意識してしまえば否応なしに流されてしまう。因果律というのはそれを大きくしたような物だ。根元衝動という流れ、方向性を一本の河だとするのならば、それらが集まってできる海を因果律と呼ぶ。いや、河から海へと続く全体的な流れそのもの、と言うべきか……」
「えっと……つまりは運命みたいなものですか?」
「驚いたな、おまえは運命論者なのか? あんなのを信じるのはやめておけ。詭弁も良いところだ」
「いえ、別に信じてはいません。ただ似てるかなぁ、と」
「全く違う。因果律は運命なぞと違って用意された『結果』ではない。あくまでそこへ至るまでの過程……状況に過ぎない。全ての方向性が指し示す場所。それこそが因果律だ」
「でも、それってやっぱり結果なんじゃ?」
「方向性は流れだ。故に一点に集中すればお互いを打ち消しあう。だが、それは結果ではないだろう? 流れはお互いにぶつかり合うが、その後で再びお互いの流れに戻ったり、新たな流れを産んだりする。それが再び流れ、初めて結果となるんだ。―――この河と海の説明法は初心者向けで一番分かりやすいと思うのだがな……黒桐、おまえも少し魔術を学んでみるか?」
解らないのは断じて僕のせいじゃないと思うのですが……。
前に赤い服を着た魔術師が言っていたけど、やっぱり橙子さんには教える側は向いていないようだ。
頭の中で整理しながらしゃべるのではなく、しゃべる事で頭の中を整理していく橙子さんの説明は理解に苦しむ事が多いし……第一、教師なんてガラじゃない。
僕はとりあえず因果律の説明はどこかへ放っておく事にして、話を進めることにした。
「えっと、それで無関心がダメっていう事の話なんですけど……」
「あぁ、話がずれていたな。いいか? どうせ詳しく説明しても理解できんだろうからハッキリ言ってしまうが、強い方向性は他の方向性を引きつけやすい。大きな流れの元には他の小さな流れが必ず集まってくる。これは根元である全ての始まり「 」へと戻ろうとする……つまりは多様化し不安定になった世界を安定した唯一の『一』へと戻ろうとする回帰衝動だな。……と、また話がずれた。要するに”両儀式”がいる限り、その流れに引きつけられた連中は必ずこの街へと集まってくるんだ。だから―――」
「だから、この街で起こるイカれた出来事はすべて私のせいだ、と?」
再び式が会話に参加してきた。だけど、なんだか余計に機嫌が悪くなっているような気がする。
たしかに、この街の殺人事件がすべて自分の責任だといわれたら、気分が悪いだろう。
「おまえのせいだとは言わないが、おまえが原因になっているのは確かだな。別に気にする必要はないが、ただ覚悟はしておくべきだ。式、おまえは一生楽は出来ないぞ」
「フンッ、退屈よりはマシだよ」
つまらな気に吐き捨てる式。だけど橙子さんは笑った。
「フフフ、だそうだ、黒桐。せいぜいがんばりなさい」
「おいっ! なんでそこで幹也の名前が―――」
「はい。もちろんそのつもりです」
「なんでおまえもそこで返事を―――」
「さぁ、では話は終わりだ。そろそろ仕事に入ってくれないか? あいにくと君を残業させるだけの仕事は入っていないが、皆無というわけでもないんだ」
「わぁ、嬉しい限りです」
「私の話を―――!」
喚く式を横目に、僕は自分のデスクに座った。
彼女をからかうことで気分が少し晴れたのか、先ほどまでの陰鬱な気分は無くなっていた。
だけど……心の奥底にはわずかにしこりが残っていた。
/2
ズバリ言ってしまうと―――橙子さんは嘘をついた。
残業させるほどの仕事はないと言ったのに、僕が事務所から出たのは通常の終業時間をたっぷりと過ぎてからだった。
おかげで周囲はすでに真っ暗になっている。幸い住宅街を選んで通っているので街灯の光はあるのだが―――
「そうか……月がないんだ」
ふとしたことで空を見上げて、そこにいつもの姿が無いことに気がついた。
天気予報では雨が降るようには言っていなかったけど、雲のカーテンが一面に掛かっているらしく、月だけではなく星もほとんど見えなかった。
満月の夜にはいろいろ悪いことが起こるらしいけど、月のない夜にはもっと悪いことが起こるらしい。
むかし月について橙子さんに話を聞いたときに教えられた話を思い出して、僕は少し後悔した。
素晴らしいことに、周りには人っ子一人居ない。
なんとなくプライドがあるから走り出すことはないが、それがなかったらきっと家に着くまでダッシュしていたことだろう。
「式の家に泊まっていけば良かったかな?」
帰り際に式の家に寄ったのだけど、今日は泊まらずに帰ってきてしまったのだ。
なにせ、式の機嫌が完全に治っていなかったから。
機嫌のいいときは素直で良い子なんだけど、悪いときはとても危険だ。怒っていると言うよりは照れているといった感じで傍目には可愛いとは思うのだけど、それでナイフを振り回されてはたまらない。
でも……これではどっちもどっちだったかもしれない。
夜道をてくてくと一人っきりで歩いている僕は、きっと殺人犯にとって格好の的なんだろう。
「そこの君っ―――」
唐突な声に、僕の身体は情けないくらい跳ね上がっていた。
「君、こんな時間になにをしているんだ」
文面は質問なのにも関わらず口調は疑問形ではない。この問いかけ方は間違いなく警察のものだ。
声の方をゆっくりと心を落ち着けながら向くと、案の定自転車に乗った警察官がいた。近くの交番の巡査なのだろう、まだ幾分若い。
「残業帰りです」
素直に、ハッキリと答える。
夜中に出歩くことや、危ないところに出入りすることもたまにある僕は、この手の職務質問には慣れている。
最初はいきなり声をかけられて驚いたけど。
「………」
警官は何も言わずにライトでこちらを照らし、じろじろと観察するかのような視線を向けてくる。
今までの職務質問ではこんな対応を受けたことはなかった。学人が言うには……
「おまえは見るからに無害そうだからな。おまえを犯罪者だと疑うよりは、そこら辺の自転車にも乗れないようなガキを疑う方がまだ現実的だ」
という事らしい。いくら何でも言いすぎだ、と怒ったのだが「最近のガキはなかなかどうして侮れないぜ」と笑われてしまった。
どうやら僕には犯罪者としての資質というか威厳というか、そう言ったものはまったく存在しないらしい。いや、あっても困るわけだけど。
……そう、やっぱり、こういう時は困るのだろう。
警官はあいかわらず疑わしげな瞳だ。
分からないでもない。なにせ以前の連続殺人事件……結局最後は犯人の死亡という形で終わらせてしまっているのだ。あれだけ被害者を出していて、警察は犯人を捕まえられず――――不名誉極まりない。
マスコミや市民から散々叩かれ、幹部の何人かのクビが飛んでいる。
そこに来て今回の不可解な殺人事件。大輔さんの疲労具合からみると、警察の力の入れようは相当な物のようだ。きっとこの巡査も上司から夜道を歩いている奴は全員任意同行で引っ張って来い! くらい言われているのかも知れない。
「残業って言ったけど、何の仕事?」
「建築デザイナーです。アシスタントですけど」
疑わしげな口調の警官の質問に、サラリと答える。これは以前から用意しておいた答えなので、つまらずすぐに出てきた。
嘘はついていない。橙子さんは本当にそういう仕事をしている。ただ別にそれだけが仕事ではないだけで。
「会社名は? 職場は?」
「アトリエ・伽藍堂。小さい会社なんでたぶん知らないと思いますけど」
たぶんも何も、絶対に知っているわけがなかった。
魔術師である橙子さんは何か良く分からない事情であまり世間に名前を知られてはいけないらしい。だから会社の……といえるのか分からないけど……宣伝は一切行っていない。仕事をするときは自分から勝手に売り込んでいくだけ。腕のおかげでリピーターがついてくれてなんとかやって行けているけど、そうでなかったらきっと今頃僕は路頭に迷っていることだろう。
まぁ、そんなおかげで僕の会社の知名度はとんでもなく低い。この街に長く住んでいる人でも、橙子さんがデザインした建物を活用している人でも、ほとんどしらないだろう。
もちろん、この若い警察官などは絶対知っているわけがない。
「ここから十五分ほどの所にあるんですけどね」
「いや、知らないな。―――免許証かなにか、身分を証明できるものを見せてもらえるかな?」
「はい」
財布から受け取ってまだ一年も立っていない免許証を取り出す。まだ左目があった頃の写真に、少しだけ懐かしさを感じた。
警官はそれをしばらく眺め……顔を上げたときには今まで堅かった表情が少しゆるんでいた。どうやら信用してくれたらしい。
「殺人事件が起こったというニュースを見ていないのか? こんな時間に一人で出歩かないように―――」
「黒桐君。ねぇ、あなた黒桐君じゃない!?」
突然かけられた声に振り向く。街灯のほの暗い明かりの中に、自転車に乗った髪の長い女性の姿があった。
顔はほとんど分からない。女性、と分かったのは先ほどの声音と街灯の光に浮かび上がるシルエットから想像したからだ。
「誰―――?」
「私よ、私。覚えてないかなぁ?」
自転車から降り、近づいてくると徐々にその顔が見え始めた。
まず目に入ったのはファッション性は高くないごく普通のフレーム無しメガネ。その奥には人の良さそうなタレ目。
童顔だった。ただし、長身だった。僕と同じ、いや少し大きいくらいだから170近いだろう。その長身の上に、中、高生でも通じそうな幼い顔が乗っているのだ。
その顔……見覚えがあった。
「狭間……狭間翠先生?」
「そうそう。覚えててくれたのね、嬉しいわ!」
そういって、狭間先生は昔と同じ笑顔を見せてくれた。
狭間翠先生は僕の通っていた高校で英語の教師をしていた。僕が一、二年の時に担当になった先生で、教師になってまだ一年目の新米教師だった。その童顔も手伝って教師と言うよりはあまり頼りにならない先輩、のような感じの人だったように覚えている。
ただ、僕はあまり印象を残していない。狭間先生とはあまり一対一で話すことはほとんどなかったし、英語の授業は好きではなかったから。
だから今、先生から声をかけてくれたのには驚きだった。
「先生……どうして?」
「どうしてって見回りよ、見回り。ウチの生徒が夜出歩いて被害に遭わないように……というのが名目で、実際にはあなたみたいに警察に引っかかった生徒を助ける為よ」
と言ってももう諦めて帰るところだったんだけど、と今日の成果はあまり上がらなかった様子で苦笑した。
なるほど、この時期に自校の生徒が警察に補導されたなんていうのは、確かに学校にとっては大きなマイナスだ。だから職質の段階で助け出せるよう、見回りが行われているのだろう。
それは分かるんだけど……目の前にその警察が居るのに、なんのためらいもなくそんな事が言えるなんて。
「あの……ちょっと」
「あ、はいはい。私はすぐそこの高校の教師ですよ。この子は元教え子で成績は微妙な所でしたけど、生徒会とかにも参加したりして教師、生徒共に信頼が厚かったんです。ええ、この子は人を殺せるような子じゃありませんよ。絶対に。補償します」
警官の口を塞ぐように一気にまくし立てる先生。
うわ、こんな性格だったかなぁ? オドオド、フラフラとしている姿しか記憶していない僕にはすごく驚きだった。
年月は人を変える……。
「………」
「信用してください」
「……はぁ、別に疑っている訳じゃありませんから。とりあえるあなたも免許証か何か、身分を証明できる物を見せてください」
酔っぱらいの相手をしているかのような疲れた感じで、狭間先生から受け取った免許証を確認する。
「……分かりました。じゃあ二人とも氏名と住所、電話番号を教えてください」
「イタ電しちゃ、イヤですよ?」
「しませんっ!!」
絶対違う。こんな性格じゃなかった。
いくら年月が人を変えるからって……変わりすぎだ―――っ!
氏名などを何やらメモ用紙のような物に書き記した後、警官は再び自転車に乗って去っていった。
この後も、おそらく朝方までこのような見回りを続けるのだろう。ご苦労様と言うべきか、それが本来の彼らの仕事だと言うべきなのか……。
「それにしても―――」
「はい?」
「それにしても、まさかあなたとこんな形で再会するとはおもわなかったわ」
警察から解放された後、方向が同じだと言うことで途中まで一緒に歩いていた狭間先生が、いきなりそんな事を言ってきた。
「僕は先生が僕のことを覚えていたことに驚きですよ。先生とは、ほら、あまり話さなかったから」
「そうね。授業の時くらいしか顔を合わせることは無かったかしら。でもあなたは私たち教師の間では人気があったのよ? 素直で物わかりの良い子だって」
「そうだったんですか」
教師に「素直で物わかりが良い」と言われることが果たして良いことなのか分からず、曖昧な返事をするしかなかった。
「それに……あの事件があったしね」
「あの事件?」
「覚えてないかな? 私がまだ新米教師で授業中に騒ぐ生徒達をどう抑えたらいいのか分からずにオロオロしていた時、あなたが助けてくれたでしょう?」
あぁ……そういえばそんな事も在ったような気がする。
あれはいつだったか、まだ生徒達の中学生気分が抜けない頃だったから一学期の事だったと思う。
長身だが幼げで威厳の欠片もない狭間先生は生徒達に舐められ、彼女の授業はいつも騒がしかった。男子生徒だけではなく、女子生徒も隣の席の友人とベチャクチャとしゃべるだけで、黒板をまともに見ている者などほとんど居ない。
そんな中で、狭間先生は……ビデオにとってハプニング大賞に送ったら賞が取れそうなほどオロオロしていた。
僕はどうしたものかと迷ったが、結局立ち上がって――――
『せっかく綺麗な発音で授業をしてくれてるんだから、ちゃんと聞こうよ。話なら休み時間にでも出来るんだからさ』
なんて言ってしまったのだ。
「嬉しかったわよ〜」
「でも、それで静かになったのはごくわずかな間で、その後まともな授業状況に直したのは先生の力じゃないですか」
「それでもがんばろうってきっかけになったのはあなたの言葉よ。感謝してるわ」
そんな顔で素直にお礼を言われたら……僕は自分の顔が赤くなるのを感じた。幸い辺りは相変わらずの暗さなので気づかれはしなかっただろうけど。
その後しばらく、沈黙が続いた。
夜道を男と女が二人、並んで歩いている。しかもその二人には会話もない、というこの状況は酷く落ち着かなかった。
別に僕はおしゃべりな方ではないし、沈黙を嫌うタイプではない。そういう性格では式の隣には居られないだろう。だけど、この状況はそういうのとは全然違っている。
先ほどの会話を引きずっている僕は、慌てて会話のネタを探した。
そして、出てきたのは……
「例の殺人犯……警察は犯人を捕まえられるでしょうか?」
よりにもよってこんな時間、こんな場所でこんな話しか出てこないとは……自分が情けなくなる。
普段から式や橙子さんを相手にしているから、こんな会話が当たり前になってきてしまっているのだ。と、二人のせいにしてみた。
だが、予想外にも狭間先生は気にした様子もなく、軽い口調で言った。
「そうね。日本の警察は優秀だけどね……それはあくまで動機のある、ごく普通の犯罪に対してだけだから。黒桐君、あなた『ルナシィ』ってしってる?」
「『ルナシィ』ですか? 知ってます。満月の夜に凶暴な性格になってしまう精神の病ですよね」
「そう、月狂病とも呼ばれて満月の時に正気を失い、凶暴な行動をとってしまう病。満月の夜に犯罪が増えるのはこれが原因だと言われているわ。かつてロンドンを襲った伝説の切り裂きジャックも、満月の夜に犯行を行ったそうよ」
「でも、いまだそれで無罪になった人は居ないんですよね?」
「月が人間の精神に影響を与える、なんて証明不可能でしょうからね。統計データは出ているけど証拠能力としては不十分よ」
ただでさえ人間の精神に関してはまだまだ曖昧な部分が多すぎる。裁判で犯人の『責任能力』があったかなかったかを判断するために医師が精神鑑定を行ったりもしているが、その正確さには疑問の声が多い。人間は他人にも、自分にも嘘をつくことが出来るから、それを判断することは容易ではないのだ。
まして、月に影響されました、なんていうのを証明することなんか誰にも出来ないと思う。
「先生はつまり、この犯人がソレだと?」
話の流れからしてそうなのだろう、と聞き返した。
だけど返ってきたのは……微笑みだった。
「私は―――動機のある殺人は三流だと思っているわ」
「せん、せい……?」
「そして、月だろうが何だろうが、くだらない衝動に飲み込まれた殺人は二流だと思っている」
それは、とても優しい微笑みだった。だっていうのに、僕は心が震え上がるような恐怖を感じていた。
目の前にいるのは間違いなくさっきまでの狭間先生だというのに、僕に語りかけているこの人は―――誰か他の、むかし見たことのある―――
「さて、それでは一流の殺人とはいかなるものなのか……」
狭間先生の腕が動いた。まるで無駄のない自然で滑らかなその動きに、震え上がった僕の身体はまったく反応してくれなかった。
指が、首筋を撫でていく。暖かいと思っていたそれは、むしろ冷たく感じられた。
先生は僕の首筋を撫でながら、ジッとこちらを見つめている。暗闇の中でもハッキリと分かるほどに、瞳に青白い光を宿して。
その瞳で、思い出した。
そうだ―――彼女はまるで―――かつての式
いや―――織―――
「ゴミ」
「え?」
「ゴミがついてたわよ」
そう言って、狭間先生は僕の目の前に糸くずを突き出してきた。
なるほど、僕の首筋についていたその糸くずを取ってくれたらしい。そう気づいたときには、先ほどの緊張感は無くなっていた。まるで全てが夢だったんじゃないだろうか、と思ってしまうほど綺麗サッパリと。
「ありがとうございます」
「良いのよ。それじゃあ、私はこっちだから……ここでお別れね」
「あ、はい。それではまた―――」
いつの間にか、そんな所まで歩いてきていたらしい。
押して歩いていた自転車に再び跨った狭間先生に小さくお辞儀をして、僕は背を向けた。
「答えは……次にあった時にね――――――――――――――――――コクトー」
慌てて……振り返る。
だが、其処にはすでに彼女の姿はなかった。
今のは、いや今までのはいったい何だったのだろう……僕はまるで狐にでも摘ままれた気分で帰路を歩かなければならなかった。
/3
考え事をしていると足が速くなるらしい。僕は十分も掛からず自宅にたどり着いていた。
玄関のドアのカギを開けようとして、中に誰かが居ることに気づく。
ノブを回してみると、不用心にもあっさりと開いてしまった。もちろん、朝出るときはちゃんとカギを閉めていったはずだ。
「大輔さん!」
「お〜、お帰り」
中にいたのは、案の定大輔さんだった。
この人は勤務先から近い僕の家をまるで第二の我が家のように使っていて、合い鍵も持っている。その上、専用の食器もあるし、洗面所には専用の歯ブラシもある。
「どうしたの?」
「着替えを取りに来たんだよ。今日は向こうで泊まりだな」
「それはそれは……ご苦労様」
世間様では警察のことを税金泥棒とか呼んで、まるでまともに仕事をしていないように言っているけど、大輔さんの働きっぷりを見ている限りではそんなことはなかった。
朝も晩も不定時で、むしろ他のどんな仕事よりも大変そうだ。
「それじゃ、俺はでるけど……ちゃんとカギ閉めておけよ?」
「ハイハイ。わかってますよ」
「ハイは一回で……ん? おい幹也。どうしたんだ、そこ」
「どうしたって……何が?」
「そこだよ、首の裏っかわ」
何のことか分からず、大輔さんがジェスチャーで示した辺りを自分でも触れてみる。
「ッ!?」
思わぬ所の痛みに、少しだけ首をすくめた。
傷があった。そんなに深くはない。それこそ皮一枚切られた程度。
「何かに擦ったのかな?」
「いやぁ、これはそんなんじゃないな。なにか良く切れる物だ。おまえ、誰かにナイフとか突きつけられなかったか?」
「まさか。そんな事があったら、この傷のことに気づかないわけないですよ」
「そっか……そうだよな」
大輔さんは訝しげにしながらも時間が切迫しているようで、最後にもう一度、カギは閉めておけよと言い残して出ていった。
それを見送り、言われたとおり鍵をかける。
「それにして……なんでこんなところに怪我なんか?」
こんなところ、普通は怪我しない。式と付き合っているとたまに、よく分からないところに怪我を負ったりはするけど、さすがに首の裏側なんてそうそう怪我をする機会はないだろう。
む〜んと今日一日の記憶をさかのぼってみる。
朝、家……。
昼、事務所……。
まったくそんな覚えはない。
じゃあ夜? 式を送っていった時だろうか?
いや、それも違う。むくれた式に気を取られて気づかなかった、っていうことは無きにしもあらず、だけど……ナイフにしろ鋭い何かにしろ、そんなものが有れば『あの』式が気づかないわけがない。
だったらその後……式を送ってここに帰ってくるまでの間?
その間だといったら、警察に呼び止められて……
そして、懐かしい顔と再会して……
「―――あ」
もう一度、傷に触れた。
残っている……。
確かにこの場所に感じたあの感触を、僕は覚えていた。震えてしまうほど冷たいあの指の感触を。
そうだった。大輔さんと会ってすっかり忘れていたけど、僕はあの人のことをずっと考えていたんだ。
「狭間先生……あなたは―――」
僕は橙子さんの言葉を思い出した。
方向性を束ねた因果律の存在。
式という流れに集まってくる者達。
――――式、おまえは一生楽は出来ないぞ――――
嫌なことが起こる。
僕の予感は、どうやら的中しそうだった―――
空(そら)の境界……前編です。
今回、見切り発車しました。まだ後編はおろか、中編も書けてません。
歌月十夜のときにしろ、KANONSSこんぺのときにしろ、大学のレポートにしろ、夏休みの宿題にしろ、雨音はどうやら〆切間近に強い(=それまで全くダメ)ようなので、今回は自分から〆切を設定することでその時の感覚をおもいだそうかな、と。
ただし、自分で課した〆切っていうのは、たまぁに乗り越えちゃうので……。
次回更新は……途中で須啓さんの所の「式乳祭り」に一本入れる予定なので……三週間後を予定しています。
が、果たしてどうなるかは、誰にも分かりません。(ぉ
もしかしたら、書き直すかも知れないですしね(汗
……さて、前編なのであんまりお話の中身に関しては書けないんですけど……
分かる人には分かるかも知れませんが……雨音は警察に職務質問を受けた経験がありません。
夜、外に出歩くことは結構あるのですが、いまだ未経験です。
あぁいうのって、あんまり引っかからないものなんでしょうか?
雨音の知人はよく職質されてるみたいなんですけど……(汗
というわけで、職質シーンは完璧に雨音の妄想です。
警察ってあんな感じで良いのかな……?
あと、ちょっと出てきましたが、「因果律」についての説明は適当です。
が、まぁもともとこれといった正解のない問題ですから構わないですよね♪
小難しい説明は苦手です〜♪
では、次回、中編にてお会いしましょう〜
もどる