ソラ

 「 空 の境界 〜 the Million Stars, and Dreams...









 07/




 別に、朝にニュースを見る習慣はない。
 ただ最近はいろいろあったりもするから、あいつの行動を予測するためにも出来る限り見るようにしている。
 あいつは単純だから、怪しげな事件があったら必ず首を突っ込む。
 私はそんな事どうでも良いのに。
 あいつが首を突っ込むから、私も首を突っ込まなければならなくなる。
「殺人―――この近くか」
 見覚えのある風景を背にして、見覚えのあるリポーターが何かを話していた。
 私は、小さくため息をついた。
 これはきっと、あいつが騒ぐだろう。
 朝から、嫌な気分だった。




 しかし、私の予想に反して、
「ヒマなら、遊びに行かない?」
 朝っぱらからやってきたか幹也の口からでた言葉は、そんなんだった。
 今日は日曜日なのだから特に問題は無いのだが……少し驚きだった。
「お昼くらいならおごるからさ」
「オマエ、給料日前だろ」
「うっ、そこをつかれると痛いなぁ。でも、ファーストフードくらいなら大丈夫だよ」
 なんて、ひきつった顔で言われてもね。
 私は知っている。幹也の財布の中にはファーストフードとはいえ、二人分を買うには辛すぎる程度の金しか入っていない。きっと次の日からはモヤシ炒めの日々が続くことになるだろう。
 それなのに、この男はいまだかつて私を頼ったことはなかった。
 私はこう見えても金銭的には余裕があった。一人暮らしとは言え、両儀の家からは毎月使い切れないほどの「仕送り」が入金されてきているから。
 だから、ファーストフードくらい、私が奢ってもいい。
 だけど幹也曰く、「デートの食事代は男が払うものなんだよ。……あぁ、いや別に払うものって決まってるわけじゃないけど……なんとなく払った方が格好良かったりするんだよね」ということらしい。 
 曰く「男のプライド」だそうだが、私にはよくわからなかった。
「とにかく、良いだろ?」
「……少し待ってろ」
 別に行きたいわけではないけれど、用事が無いのだから、まぁ仕方がない。
 それに、今日はそばにいた方がいいかも知れなかった。今朝のまだニュースが頭に残っている。
 私は幹也を外に追い出すと、パッパと着替えた。
 藍色の単衣を選ぶ。鮮やかに輝きながらも深い色彩を持つこの色は、私のお気に入りだった。
 ……別に、深い意味はない。




 街にはいつも通りの人通りがあった。いくら殺人鬼が居るとは言え、日曜日の午前中から襲われる危険性は無いと考えているのだろう。馬鹿げている。殺人鬼に勤務時間や休業日なんかがあるわけないのに。
「そういえばさ、最近ちゃんと学校行ってるみたいだね、式。えらいえらい」
「別に。行かないと卒業できないから行ってるだけ。留年とかしたら面倒だろ」
「なるほど。それじゃあちゃんと授業も受けてるんだ?」
「……一応ね」
 ほとんど寝てるけれど、それは秘密だ。
「じゃあ、体育とかもちゃんと受けてるの」
「……一応ね」
 頻繁に休むけど、それも秘密だ。
 だいたい、着物というのはいちいち着たり脱いだりというのは面倒に出来ているから。体育の授業の度に着替えてるのは面倒くさくて仕方がない。
「見てみたいなぁ。式の体操服姿。運動会には絶対行くからね!」
「やめろよ。秋隆だけでも頭イタイのに……」
 幼稚園の時から、何かイベントがあると必ずプロが使うようなドでかいカメラとか、撮影機材とかを持ち出して来るのだ。あれは恥ずかしくて恥ずかしくて……何度殺してやろうかと思ったことか。
 ……と、意図のつかめない幹也の問答に、私は警戒した。
 最近、この男は橙子に似てきたようで、たまに油断ならないときがある。特に、こういう意図不明な質問をしてきたときなどは要注意だった。
「そういえば、もう体育の授業はプールになってるのかな?」
「………」
「式……そんなあからさまに警戒しなくてもいいんじゃないかなぁ」
「うるさい。何が狙いだ」
 どんな絡め手でくるか分からない以上、迂闊に受け答えもできない。
「別に狙いなんてないよ。……ただね、普通に誘ったんじゃ断られると思ったから」
「何をだよ」
「もし良かったら、今度……海に行かないかい?」
「……え?」
「ふ、二人で……さ」
 
 ――――何?

 ――――海に?

 ――――二人で?

「こ、こここここここここ、断る!!」
「やっぱりね」
「なんでオマエと二人で海になんかっ!?」
「はいはい。ちょっと声のボリューム下げましょうね。恥ずかしいからさ」
 誰のせいだ!!
 一瞬、絞め殺してやりたくなったが、何とか抑える。
「……なんでいきなりそんな事言うんだよ」
「だってもうすぐ夏休みだろ? 夏と言えば海じゃないかぁ」
 ヘラヘラと笑いながら、いつものよく分からない論理を持ち出してくる幹也。
 あんな塩水に漬かって何が楽しいんだ? 私にはさっぱりわからなかった。
「ね、行かない?」
「行かない」
「どうしても?」
「どうしてもだよ。だいたい、何で海になんか行きたがるんだ? 行って別になにがあるわけでもないし、ただ暑いだけだろ。それに、あの匂いが嫌いなんだよ。潮の匂いにいろんな匂いが混ざってて、あの下品な匂いは……ん? 幹也?」
 先ほどから何の反応も返ってこないので視線を上げると、こちらの話はまったく聞いてなかったようで、幹也の視線はまったく違う方向へ向かっていた。
 そちらの方を向くと、何となく見覚えのある女が歩いていた。
 背が高い割に童顔で、ボーっと歩いているその姿もどこかサマになっている。
「狭間先生」
 そう呼びかけると、女はこちらを振り向き、驚いたような顔をした。
 その顔に、そして名前に、私は心当たりがある。
「両儀、さん……」
 やはり、間違いない。
 私が通っている高校の、たしか英語教師。
「……奇遇ね」
 よく言う。偶然であることは最初の驚きようから分かったが、奇遇でないことは分かっているはずだ。
 呑気に話している幹也の隣で私は相手を睨み付けた。
 相手にそれと分かるくらいの敵意をぶつける。しかしそれは自分の意志ではなかった。
 植え付けられた本能が、そうさせていた。

 コイツ―――何かヤバイ。

 薄っぺらい人間の皮の下に、なんだか分からない、とんでもないバケモノを飼っている。
 幹也はそれに気づいていないようだったが、それも仕方なかった。
 獣の気配は獣にしか分からないように。
 殺人者の気配は殺人者にしか分からない。
「オマエ、血の匂いがするぞ」
 やはり、と言うべきか。表情が変わった。
 一度でも人を殺した者は、その身に血の匂いを纏ってしまう。
 これは実際に嗅覚がとらえられる匂いじゃない。しかし、けして消えるものではない。
 私は幹也と狭間の間に割ってはいるように移動した。
 こいつが何を考えているのか。何を目的にしているのかは分からないが、この手のキレたヤツは何をするか分からない。
 まさかこんな場所で始めるとは思わないが、何かあったときに幹也の反射神経に頼るのは危険すぎた。
 だが、そんな私を見て、狭間は小さく口元をゆがめた。
「今はやらないわ」
「何?」
「まさか、こんな所でやって黒桐君を巻き込みたいわけ?」
 言われて、視線を後ろへ流した。
 そこには、今どういう状況なのか分かっていないのだろう、普段より3割増しな間抜け面があった。
 相手の実力はハッキリしないが、幹也を庇いながら殺れるほど甘くはなさそうだ。
 どうやって場所を移動させるか……頭を働かせる。
 しかし、不意に狭間が苦しみだした。
 まるで身体を見えない何かで捻られているかの苦しみようだった。
「狭間先生!?」
 幹也が慌てて近寄ろうとするのを制する。 
「私は、彼を殺すわよ―――」
 それだけ言うと狭間はまるで逃げるように走り出した。
「……先生、どうしたんだろう?」
「幹也、オマエは橙子の所へ戻ってろ」
「式?」
「いいから。私も後で行くから、橙子の所で待ってろ」
 それだけ言い残すと、私は狭間の後を追った。すでに見失っているが、わずかに残っている血の匂いをたどることが出来た。
 後ろから、幹也の声が聞こえたような気がしたが、振り向くことはしなかった。
 アイツが何を考えているのか。なぜいきなり苦しみだしたのか。
 そのワケはさっぱりわからないし、興味もない。
 ただ、私は狭間を追いかけていた。
 殺す?
 誰を?
 アイツを?
 冗談じゃない。アイツは私のものだ。
 誰にも殺させてやらない。




「狭間……」
「いいえ……私は―――両儀織だ」
 しばらく走った後、やっと追いついたのは薄暗い路地裏だった。日曜日の陽気も届かない、陰湿な空間。
 だけど、私達の戦いにはお誂え向きかもしれない。
「両儀、織だと?」
「そう。私は両儀織」
 嫌な雰囲気だった。
 まるで泥だらけの沼のような、薄気味悪く湿った空気が流れることなく沈殿している。
「巫山戯ているのか」
「巫山戯る? いいえ、巫山戯てなんかいないわ」
 スッと、先ほどの苦しみようがまるで演技だったかのように軽い動きで立ち上がった。
 何を考えているのか、全く分からない不自然な表情を浮かべながら、狭間翠は笑っていた。
「オマエ、何者だ」
「言ったでしょう? 両儀織だと」
「……織は、もう居ない」
「いいえ、ここに居るわ。私が両儀織になったの。私は、彼を継承したのよ」
 スィと一歩前へ出る。それに押されるように、私は一歩下がった。
「彼の言葉、彼の記憶、彼の経験……彼の見てきた物、聞いてきた物、私はたくさん受け取った。もちろん、あなたの事も。両儀家の事もね。私にはね、あなたには無い織の記憶があるのよ」
 笑いながら、あなたが殺した記憶よ……狭間はそう言った。
 織の記憶……たしかに、私にはない。
 式と織は同じ物でありながら両対極だったから。記憶の共有はどうしても自己の崩壊を導いてしまう。
 だが、コイツが織というのはどう言うことなのだろうか。
「織の亡霊にでも、とりつかれたのか?」
「だとしたら、真っ先にあなたが憑り殺されるんでしょうね」
「本気か」
「いいえ。冗談よ、式。私にとってあなたは別にどうだって良いのよ。両儀織には式は要らない。私に必要なのは、コクトーただ一人だけ」
「さっきも言ってたな。幹也を殺すのか……」
「そうよ」
 その一言に、私はすでに話し合いを捨てた。最早そんなものに意味はない。
 後は、私かアイツのどちらが勝つかという事だけだ。
「コクトーを殺して、私は完全な……織になる。そう、完璧な殺人鬼に」
「何……?」
「式、邪魔をするなら、オマエも殺すよ?」
 
 タンッ

 踏み込んだのは、私が先だった。
 相手との間合いを一歩半で縮め、
「フッ!」
 息を吐き、掌底を突き出す。
 全力……もちろん手加減などするわけがない。
 相手を一撃で打ち倒す。ただそのことだけを優先した一撃。
 顎先を狙ったその一撃は、当たれば確実に相手を行動不能に陥れることが出来る。
 だけど……

 フワッ――――

「えっ……」
 まるで抵抗感の感じられないガードだった。
 相手のぶつかって消える筈の勢いがそのまま残り、私は狭間の横を通り過ぎそうになってしまった。
 コレは……どんな種類の武道でもある防御法の一つ、受け流し。
 師である父に以前教わったことがある。
 「力」とはつまり「流れ」なのだと。どんな物でも、静止した状態ではいかなる力も発揮しない。全ては流れ、それが他の何かにぶつかったとき、力となる。
 だから、どんな強力な攻撃であろうと、その流れを操る事が出来れば脅威にはならないのだ、と。
 受け流しはつまりそれだ。自分に向かってくる流れの方向を変える事によって防御となす。それらを特化させたのが柔道、柔術と呼ばれる物だった。
「―――っく!」
 もう一撃、今度は手刀を放つ。
 しかしそれもあっさりと受け流された。
 受け流しは理論上は分かりやすく、簡単な物だ。しかし実践するのは簡単なことではなかった。
 自分に向かってくるけして遅くはない流れをずらすのだから。一歩間違えば致命的なダメージを受けかねない。
(コイツ、強い。というか巧い)
 父に似た巧さだった。
 相手との力の差が圧倒的に有るわけではない。ただ、こちらが絶対的に力を出し切れていないだけだ。
 詰めていた間合いを数歩分離れる。
 あのまま闇雲に攻撃しても、おそらく効果は得られないだろうから。
「あらあら、もう萎縮してしまったの? では仕方ないわね、こちらから仕掛けてあげる」
「え―――」
 そう言った狭間の攻撃はボクシングのジャブのような拳打だった。軽く、早い。しかし威力は無いだろうその一撃に、私はためらった。
 相手がどんな隠し種を持っているか分からない状態で、その軽い一撃がどんな危険を産むかわからない。
 一撃、二撃。離れすぎる訳にもいかず、かといって迂闊に間合いに入るわけにも行かず、中途半端な距離が続く。
 だが、いくら避け続けてもなんら仕掛けてくる気配がない。
(どうする?)
 一瞬ためらった。
 何を隠しているか分からない。先ほどの動きからなんとなくカウンター系か、柔道、合気道系のスタイルだと予測しているが、そんな生半可な予想は役に立たないだろう。ならば……
 どうする―――決まっている。いつまでもためらっているわけにはいかない。長引かせるつもりはないのだから。
 私は間合いを詰めるべく、一歩踏み出した。受け流しは身体を密着状態にすればほとんど無効にすることができる。こちらは、十センチもあれば相手を打倒する事もできた。
 ……だが、一歩踏み出した瞬間、それを待っていたかのように狭間の構えがかわった。今までの軽い攻撃ではない事を証明するように腰の入った構えだ。
(カウンター狙いか!)
 踏み出していた足を無理矢理接地させ、全力で身体を後ろに流す。
 柔軟をしていない足首がギシギシと痛んだが、構ってはいられなかった。とにかく、間合いから逃げることが最優先だった。
 だが、すぐにそれが見当違いな考えだとわかった。
 狭間の拳は先ほどから少し動いただけで静止している。さらに、身体が半歩分後ろに下がっている。
(――――フェイント?)

 ブォッ!

「っ!?」
 唐突に、なんの予告もなく跳ね上がってきた蹴足を、私は避けようとして……しかし想像以上の早さにそれが出来ずにとっさに左手でガードした。
 受けた場所の骨が軋む。回避途中で身体が少し流れていたからこの程度ですんだが、もしその場にとどまって受けていたら確実にへし折られていただろう。
 その日本人離れした長身長足から放たれる蹴足はまるで―――
(死神の大鎌だ)
 戦慄した。筋力だけではなく、身体の捻りやバネを使ったその蹴りは、おそらくまともに食らえば大の大人の首を容易くへし折る事ができるだろう。
「ぐぅっ!」
「なかなか悪くない反応ね。さすがは元織の器って所かしら」
 これは……キツイかも知れない。
 半場蹴り飛ばされるように間合いを5メートルほどにまで広げ、私は状況を再認した。
 さっきの蹴りを受けた左手はまだしびれてまともに動かない。それはいい。
 足首の痛みは一瞬のものだったから、気にしなくて良いだろう。
 問題はまともに反応できていなかったということだ。もう一度、同じタイミングでやられても、果たして反応できるか……
 そして、もう一度受け止める事が出来るか……
 改めて先ほどの蹴りを思い出し、純粋に素晴らしいと思った。
 こちらが焦って間合いを詰めたところをカウンターに見せかけたフェイントで下がらせて、不安定になったところへ蹴りを放つ。その際、自分も半歩下がることで微妙な距離をベストな位置に調整した。
 言葉だけで言えば冗談かと思うくらい簡単だ。
 だけど、こちらの動きを読みつつ、自分の有利な形へ誘導する腕は一級品。
「その服装、さすがに辛いんじゃない? なんだか動き辛そうよ」
「……つまらない事言うなよ」
 単衣で動くのは苦じゃない。確かに運動服よりは動きにくいが、慣れてしまった今ではほとんど気にならなかった。
 ただ、お気に入りのこの服で暴れるのは気が引けただけだ。
 だがもう、そんな事言っている場合ではないようだ。
「こんな時に、いちいちそんな事を気にするな」
「そうね、失礼な発言だったわ。まさか、ハンディだとは思ってないわよ」
「上等。手加減なんてしない……オマエを、潰すっ!」 
 私は50メートル走をするときのように全力で踏み出した。とにかく、さっきの蹴りはマズイ。
 あんなのを何度も食らうわけにはいかなかった。
 ならば、自然と闘い方は決まってくる。
(間合いを詰める!)
 先ほどの狙い通り、密着状態になってしまえば蹴りは怖くない。
 それを遮るように狭間の拳打が飛んでくるが、その程度で止まるような勢いじゃない。ガードしながら、一気に間合いを詰めた。
 まず狙うは、腹だ。
 身長差のため、すぐには頭部を狙えない。まずボディーを叩いて顔を下げさせる。
 ドンッ、相手の胸に肩をぶつける。
 狭間の表情が驚きに変わるのを後目に、私は足場を固めた。
 腰を落として重心を低くし、その場に固定する。後は、腰と身体の回転を使う。
「フッ―――っ!」
 ほぼゼロ距離からの拳打。我流の寸頸。
 ……だが、次の瞬間待っていたのは、狭間翠の嘲笑と、今まで以上に予想外の動きだった。
 驚愕に、眼を見開いた。鳩尾を狙った拳の下に、狭間の頭があるのだ。
 私の身体の下に潜り込み、あの長身が冗談のように折り畳まれている。
 人間の反射神経は上下の動きに対して格段に弱い。いきなりのその動きに、私も見るのがやっとだった。
 バカみたいに突き出していた手を握られる。
 そして――――

 ドムゥッ!!

 腹部に容赦のない激痛。私はほとんど真上に飛んでいた。
 何が起こったのか。
 簡単に言ってしまえば柔道の巴投げに似ていた。
 地面に背中をついて、折り畳んでいた身体を一気に延ばす。すると必然的に、バネに弾かれたように足が跳ね上がってくる。
 巴投げならば、そのまま投げ飛ばすのだが、コイツのは違う。
 腕を固定したまま、本当に「蹴り上げる」のだ。
「ゲホッ! ゴフッ!!」
 受け身も出来ず地面に倒れ込んだ私は、内蔵が飛び出てくるのではないかと思うほど胃液を吐き出した。朝食を摂っていない胃の中には幸いというべきか、胃液しか入っていなかった。
 強い匂いのする液体が、湿った地面を更に湿らせる。
 しかし口の中に広がったのは胃液の味だけではない。
 気を抜けばすぐにでも意識を失いそうになるほどの激痛の中で、口の中に血の味が広がっていくのを感じていた。
 生半可なダメージじゃなかった。それこそ全力だったら確実に致命的だったろう。
 ……そう、全力だったとしたら。
「言ったでしょう。式なんてどうでも良いって。殺そうと思えばいつでも殺せる」
 嘲笑う狭間。
 手加減されていた。もし正確に急所を狙われていたら……あるいは、もっとしっかりと腕を固定されていたら……内蔵を叩きつぶされてそのまま死んでいただろう。
 だけど今、この感じではただあばらが何本か折れた程度だ。
「式、あなたはしばらく寝てなさい。私がコクトーを殺すまで」
「ぐ……まっ!」
 歩き去っていく狭間の背中に向かって何を言おうとしたのか、私にも分からなかった。
 ただ、息と共に気力も吐き出してしまったのか、私は……そのまま……意識を失っていた。




 09/




「おや、休日に出勤とは……随分仕事熱心だな。式はどうした? 一緒じゃなかったのか?」
「なんだか分からないんですけど、どっかいっちゃいました」
「あはは、フラレたな。黒桐!」
 なんでこの人は人の不幸を笑えるんだろう……。
 さすがにちょっとムッとして、僕は自分の椅子にドカッと座った。
「橙子さんも今日は一人で寂しいだろうから、遊びに来てあげたんですよ」
「それはありがたい。では、そんな寂しい私にコーヒーをいれてくれ。ちょうど飲みたかったんだ」
「………」
 この人に口で勝とうなんて、考えが甘すぎたようだ。
 僕は言われたとおり、コーヒーを用意した。
 チラリと横を見ると、僕が事務所に入ってきた時からまったく動いていない。
 仕事をしているわけではないようだけど、だったらなんでここにいるのやら……。
「……あぁ、そういえば昨日、殺人鬼と会ったぞ」
「へぇ、そうですか」
「………」
「………」
「………」
「――――――って、えぇぇぇっ!?」
 驚きのあまり、コーヒーをこぼしそうになってしまった。
 しかしそんな僕に橙子さんは……
「反応まで3.77秒か。少し遅いぞ、黒桐」
「いきなりそんな話題をふられたら誰だって反応できませんよ。って、そんなことはどうでも良いんです! どうして……」
「どうして、とはなんだ? 質問の主旨はハッキリさせてくれ」
「橙子さん!」
「うるさいなぁ。たまたま偶然だよ。夜歩いていたら、たまたま物音が聞こえてな。覗いてみたらちょうど殺人現場だったというわけだ」
 たまたま偶然で殺人現場を見てしまった人間が、そんな余裕な態度なわけないでしょう。
「見つけたのは本当に偶然だぞ? ただ、声をかけたのは興味があったからだが……」
「声をかけたんですかっ!?」
「いちいち喚くな。さっき言っただろう。会った、と。話しもせずに会ったとは言えないよ」
「なんでそんな危ないこと……いや、橙子さんなら危なくないかも知れないですけど」
 これでも一応、婦女子の一員なのだがな……なんてひきつった表情で橙子さんが言ったけど、僕はそれを無視した。
 こんなバケモノじみた婦女子が居てたまるものか。
「それで……殺人鬼は、どんな人でしたか……?」
「心当たりがあるような言い方だな」
 ニヤリと、橙子さんの顔に嫌な笑みが浮かんだ。その立ち直りの早さに、というかこちらを攻撃する事への執着に呆れつつも、こうなったら隠し事はできないと口を割る。
「実は少し……」
「そうか。どんなヤツだったかな……そう、女だったな。背は高い。メガネをかけていたな」
「そう、ですか」
 橙子さんの説明はまるで箇条書きのような端的なものだったけど、それが誰であるかはすぐに分かった。
 予想していたことだった。だけど、そうであって欲しくなかった。
 狭間先生……どうして……
「アイツはかなり危ないぞ」
「どう言うことですか?」
「アイツは私に人を殺すことに理由など無いと言った。生きることに理由が必要ないようにな。ただ其処にあるから殺すだけだそうだ。フン、随分とイカレてるじゃないか。殺すことで完結する殺人などあってたまる物か」
 橙子さんは、そう吐き捨てるようにいった。
「いいか、黒桐。殺すという行為は必ず何かを「得る」ためにある。金銭的な物はもちろんの事、例えば捕食は自身が活動するための栄養を得るためだし、害虫を殺すのは安全な環境を得るためだし、憎しみによる殺人は精神的な満足感を得るためだ。それがどんなものであれ、人は殺すという行為の先に何かを得る。それが普通なんだ。別れが新たな出会いの始まりであるように、死が新たな生の始まりであるように。殺すことと得ることは両対極なんだよ。そうやって世界のバランスは保たれているんだ」
 昔読んだ本の一説に「殺人の動機は集約すれば「殺したいから」の一点につきる」というのがあった。殺人には消極的な動機など……つまり殺したくなかったのに殺してしまった、とか……はありえないと言うことだ。
 それを読んだ当初は疑問に感じていたけれど、橙子さんの言葉を聞いて分かった。
 殺すという行為が何かを得るためにあるのなら、そこにはいつも動的な、積極的な動機があるはずだ。本人達が気づいているかどうかとは別に、そこには確かに「殺したい」という意志が働いているんだ。
 だけど、だとしたら狭間先生はいったい……
「だがもちろん、例外はある。オマエも良く知っての通りのものだ……」
「……起源、覚醒」
「そう。起源に覚醒した存在ならそういう常識には縛られない。思い出してみろ、白純リオは「食べる」という起源を覚醒し、人間を食らっていた。だが果たしてそれは他の人間の「食べる」という行為同様、栄養補給の為だったか?」
 白純先輩は人間を食べた。人間自体は他の動物同様栄養分となるだろう。だけど、先輩は……本当に栄養の為に食っていたのか?
 違う。先輩は……そんなんじゃなかった。
「起源は全ての方向性の始まり。因果を生み出す源泉。だが、そこには一つの事象しかない。この世の全ての存在は因果として”発生”するが、その源である起源はナニモノとも繋がらない。食うという起源なら食う行為のみ。そして殺すという起源なら殺すという行為のみ」
「そんな……。でも、先生はそんな風に見えませんでした」
「ああ、あいつはおそらく、生まれながらに起源に覚醒しているタイプだろうからな」
「生まれながらに。ですか?」
「そうだ。この世の中にはマレにだが、起源に覚醒して生まれてくる者が居る」
 統計を取ることが出来ないので正確な数字は分からないが、おそらく数千万人に一人程度の割合だろう。橙子さんはそう付け足した。
「そういった連中はほとんどの場合生まれて間もなく死亡する。狂死したり、親に殺されたりと死に方は様々だがね。だが、その中にごく少数、生き延びる奴らが居る。方法はごく簡単。起源に覚醒した主人格を打ち消す別の人格を造り上げるんだよ」
「そんな……」
「そいつらはそうする以外に生き延びることは出来ない。先天的に覚醒した連中にはね、後天的に覚醒した連中と決定的な違いがある。……それは、倫理だ。人間が人間種として社会を造り、集団で生きていくために必要な常識。異常者を束縛し、時に死へと追いやる鎖。だがね、生まれながらに覚醒した連中にはそれを受け取ることが出来ない」
「どうしてですか?」
「生まれたその瞬間……生まれたとは、その存在が発生した瞬間からだぞ。その瞬間から、そいつらは絶対の方向性を持っている。いいか、そいつらにとって”絶対”の”方向性”なんだ。後から植え付けられた倫理観なんて、なんの意味もない。普通の人間とは全く逆なんだよ。普通は最初は自己を持たず、親や社会と一緒に並んで歩く。そして徐々に倫理を含むたくさんの知識を学び、自己を形作っていく。だが、先天的な覚醒者は違う。奴らはすでに自己を、そして自己の方向性を形成している。今更、誰にそれを変えられる? 大人に「赤信号を渡ってはいけません」といって、誰がそれに従う? 自己が形成してしまった後ではどんな倫理を言っても届かない。少なくとも、まだ幼い子供の頃のように純粋に、正確には」
 思い出す。白純先輩はそれでも、苦しんでいた。
 人間を食うという倫理に反する行為に、苦しんでいた。
 それは言葉で教えられたわけではないけれど、確かに知っていた。常識として。
 そしてそれは鎖だった。白純先輩を押さえ込もうとする鎖だった。
 
 ―――だけど

 それですら、あの人は止まれなかった。
「それじゃあ、狭間先生は……」
「今まではその倫理を代わりに受け取る別人格が鎖となって抑えていたのだろう。だが、最早それも限界にきているようだな。所詮は代返人格ということか……主人格には勝てないらしいな」
 倫理の鎖から解き放たれようとしている狭間先生。
 もしそうなれば、先生は……
「橙子さん……先生を救う方法はないんでしょうか……?」
「無い」
 わずかな希望。しかしハッキリと、冷たく切り捨てたれた。
「コイツらはもう揺るがない。一度自分の主人格を否定する人格……いや、倫理を肯定するための人格か。それを突破してしまえば、もう誰にも止められない。無理矢理後付された倫理観は最早、奴らにとって敵だ。殺すこと、壊すことにためらいはない」
「でも……でもっ!」
「まぁ聞け。黒桐、オマエが今まで出会ってきた奴らはみんな異常者でありながら、その事実を否定する者ばかりだった。白純も、アサガミも、誰も彼もな。それゆえに「当たり前」であるオマエが猛毒となったんだよ。だが―――」
 橙子さんはそこでメガネをかけた。
 薄いガラス越しに、普段はない真摯な瞳が僕を見つめてくる。
「だけど、今度の相手は違う。あなたは前に私に聞いたことがあったわね。人が人を殺す理由を。あの時私は感情が自己の器からあふれてしまった時だと言ったわ。だけど彼女を見てみなさい。彼女の殺人は最早―――宿命よ」
 優しい口調である分、橙子さんの言葉はより深みがあった。
 だけど……
「誰にも、止めることは出来ない。生きている限り殺し続ける者なら止めようはあるだろうけど、殺すために生きている者は、死ぬまで止まれない」
「そんなこと……」
 僕は唇を噛みしめていた。
 たぶん、分かっているんだ。
 だけど、それでも……
「なにか、僕がしてあげられることもあるでしょう!」
 そのまま、橙子さんの言葉を待たずに、僕は事務所を飛びだした。
 それ以上聞いていたら、きっと橙子さんの方が正しいって思ってしまうから。
 



 ――――初めてあったときのことを僕は覚えていない。
 きっと、教室だったのだろう。もしかしたら、その前の朝礼で顔を見ていたかも知れない。
 ただ、僕にとってその人は他の生徒や先生達と同じ、一人の人間に過ぎなかった。
 だから何故、彼女のためにそんなにするのかと聞かれてもきっと上手く答えることは出来ないと思う。
 なんとなく、分かること。
 それは……あの人が、かつて見たアイツによく似ている、という事だけだった。――――
 


 
 何処をどう走ったのか、分からない。
 だけど、気づいたら、そこは公園だった。古びた錆だらけのブランコが有る近くに、真新しいベンチがあったりするのはきっと、まるごと改装するには予算が足りていないと言うことなんだろう。
 広くはない、しかし狭くもないその公園にはあまり遊具はなかった。
 ただ、一際目を引いたのがジャングルジムだった。
 公園のど真ん中に、ポツンと立ちつくしているそれはどこか寂しげにすら見えた。他のどんな遊具よりも高みから見渡せるそのジャングルジムは、それゆえに孤独だった。
 そしてそんな孤独の頂上に、彼女は……いた。
「驚いた。こちらから出向こうと思って他のに、あなたから来てくれるなんて」
 不思議な、懐かしいような微笑みだった。凄く楽しそうなのに、何故か僕はずっと悲しそうに見えていた。
 この人は、今、どんな風景を見ているのだろう。たった一人、高みから何を見つめているのだろう。
 あの瞳は、何を探しているのだろう。
 僕にはそれを想像することすら出来なかった。
 だから、ただ、名前を呼んだ。
「狭間、先生」
「……少し、話をしようか」
 もちろん、そのつもりです。








 あとがき


 ごめんなさい。間に合いませんでした。
 言い訳はしません。
 ぜったい落とせない半期科目のテスト勉強をしていたからとか、レポートを書こうと思って図書館行ってたからとか、読みたい小説ができてひたすらそれを読んでたからとか、クーラーの修理屋さんを呼ぶために家を掃除していたからとか、最初にプロットを造らないので細かいところに困り、もう一度空の境界を一から全部読んでたからとか、そうこうしてたらかまいたちの夜2が発売しちゃってそれにドップリハマってたからとか、終わったら終わったでかまいたちの夜2のアンソロ(オフィシャル募集の)のネタを考えていたからとか、何気に次はサルゲッチュ2を買おうと思ってるとか、それの体験板をするために近くのゲームショップに行ったら小学生グループがならんでて、30分以上も代わってもらえず泣きながら帰ったとか、友人がマリオサンシャインのためにゲームキューブを買おうとしているのでなんとか止めるよう説得したりとか、そのクセ自分はXボックスマジで買おうか検討してるとか……あとは、先週からこっちで始まったアニメが乳首モロだしで、やるなサンテレビと思ったりとか。
 そんな言い訳はしません。(後半は言い訳じゃないし)
 すべて雨音の遅筆っぷりが悪いんです。
 ほんとうにごめんなさい!

 ……とはいえ、バイト数にすれば前編、中編にタメをはれるくらいですし……(これが本当の言い訳)
 どうかお許しください。

 というわけで、次こそが完結。
 お楽しみに!!