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『すべてがLになる! −THE PERFECT LOVE−』









 その日。
 五月の暖かい日差しを浴びながら登校してきた美坂栞、相沢祐一の二人を待ちうけていたのは、登校時間特有の喧騒ではなく、不可思議なざわめきだった。校門からは特に普段と変わらない風景に見えるが、例外として校舎の裏側に走っていく生徒の姿が多数ある。この時間、そちらに用が有るのはクラブ活動をしている者だけなのだが……それにしてはその数はあまりにも多い。
 栞と祐一は同時に顔を合わせ、そして同時にその人だかりに駆け寄った。
 人だかりはかなりの範囲に広がっているらしく、栞たちの居る最後尾からではその中心までの距離はまったくわからなかった。生徒達のざわめきの奥から、わずかに教師らしき男性の罵声が聞こえてくる。散開を要求しているらしいが、効果はほとんどない様子だった。
「何かあったんですか?」
 普段とは全く違う音階の声で、栞が手近に居た男子生徒に尋ねる。
「ん? あぁ、なんか事故みたいだな。怪我した奴がいるみたい」
「事故……?」
 人垣の最後尾からピョンピョンとジャンプして奥を見ようとするが、栞の身長ではかなりの身体能力がないかぎり不可能だろう。
「なぁ、場所は?」
 祐一が、先ほどの男子生徒に質問する。返ってきた答えは栞のときよりも硬質で、簡潔なものだった。
「男子陸上部の部室」




 三年D組。それが祐一の新しい教室だった。
 といってもこの歳になるとクラス変えくらいでは何の感慨も沸かない。
「んさうよはおっ!」
「…………」
 祐一の今朝1発目のジョークは不発に終わった。……不発でなかったギャグなど未だかつて存在しなかったが。
 そんな祐一の寒いジョークを真顔で睨み返したのは、三年になっても同じクラスになった美坂香里だった。普通科はクラス数が一番多いとはいえ、絶対あり得ない偶然とは言えない。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
「栞、あなたまたこっちに来たの……」
「良いじゃないですか。一年生は三年生の教室に入っちゃいけないって法律あるわけじゃないんですし」
「少しは遠慮って言葉を覚えなさい。……で? 何なの?」
 すげなく振舞いながらも、結局は受け入れてしまう。こういう甘さが栞から遠慮と言う言葉を失わせているのだろうが、香里はいまいち気づいている様子はなかった。
「男子陸上部の部室で事故があったのって知ってます?」
「男子陸上部……? 事故があったのは知ってたけど、男子陸上部だったのね」栞達より少し早く来ていた分だけ、情報が不明確だったのだろう。香里は首を傾げた。「どんな事故だったの?」
「さぁ。それが良くわからなくって……」
 あの後もいろいろ他の生徒に聞いて回ったが、詳しい内容は聞けなかった。不鮮明な情報の上に更に必要以上の憶測が上乗せされていて、語る口によって全く違う話になってしまうのだ。
 結局、その時点での情報収集は諦めた二人だった。
「あれ? そういえば名雪は?」
 教室の中を見渡し、見なれた顔が無いことに祐一は首を傾げた。名雪も三年になっても同じクラスになった。奇跡よりは幾分確率の高い偶然である。
「さぁ? まだ来てないみたいね」
「でもあいつ今日は朝練だったんだぞ?」
 今朝方早く、八割方眠ったまま家を出ていく名雪を見ている。
 普段なら部活動が長引いているのだろうと思うのだが、今日はいくらなんでももう中止されているはずだった。特に名雪は事故のあった男子陸上部と同様、女子陸上部なのだからなおさらのこと。
「何かあったのかしらね?」
「何かって?」
「……」
「……」
「……」
 三人の顔に、同時に不安の色が浮かぶ。もしかしたら、と。
 普通の人間なら、まさか、が正しい反応なのかもしれないが、この三人の場合は違う。水瀬名雪という人間性と、自分達の過去の経験が、もしかしたら、と思わせていた。
 だが、その不安は意外にもすぐに杞憂に終わった。
「あ、名雪!」
 香里が声をあげ、栞は振り返った。教室の後ろのドアのところ、ちょうど話題に上がっていた水瀬名雪が教室に入ってきたところだった。少し疲れたような顔をしている。
「あなた、どこ行ってたの?」
「生徒指導部だよ〜」
「生徒指導部? どうして? あなた何か悪さしたの?」
「う〜……違うよ〜。事件の事でちょっと話を聞かれただけ」
「事件って例の? でもどうして名雪さんが……」
「それは……だって私、第一発見者だもん」
「第一発見者!?」
「うん。小宮君と一緒に」
 小宮というのは男子陸上部の部長だ。
 今朝早く登校した名雪は校門の所で男子陸上部の部長小宮と出会った。練習メニューの調整なんかで話が有った二人はそろって部室の鍵を取りに職員室へ向かい、そのまま校舎の裏側に有るプレハブへやってきた。
 まず名雪が女子の部室を開け、中から練習メニューの書かれたファイルを持ってくる。そして男子の部室で(女子の部室に男子を入れるのは問題あると言う判断だろう)話し合おうと鍵を開けたのだが……そこにはなんと、血まみれの男子が倒れていた。
 血まみれ、というのは比喩ではなく、本当に。その男子だけではなく、部室の中にあるもの……数少ないトロフィーだとか予定が書きこまれたカレンダーだとか、ロッカーだとか。そういった物にまでべったりと赤黒い血の跡が残っていた。
 そんな状況だから、二人は最初、まったく反応できなかった。呆然と、その冗談じみた光景を眺めていたらしい。だが、入れ返られる空気の流れに乗って血の匂いが鼻を掠め、やっと状況を理解した。そして、慌てて職員室へ……大会ばりの全力疾走で向かったのだった。
 ……というのが名雪の証言。その後は、教師やら救急車やら警察やら……特筆する必要の無いお馴染みの展開だ。
「血まみれ……」
「うん。自殺だったみたいだよ?」
「自殺っ!? 事故じゃないんですか?」
「う〜……自殺って事故なのかな? わかんないけど……でも、手首を切ってたから。自殺だと思うよ?」
 なるほどそりゃ思いっきりこれでもかっていうくらい絶対的に圧倒的に末法的に自殺だな……とはとても言えない理由だったが、確かに手首から血が流れていれば自殺を真っ先に連想するのは頷けた。
「確か……片山……君、だったかなぁ? 一年C組の子だよ」
「えっ! あの片山君なんですか!?」
「あぁ、そっか。1−Cっていや、栞のクラスだったな」
 栞は現在もう一度一年生をやりなおしている。
 なにせ、去年はほとんど学校にこれない状態だったのだから、当然と言えるだろう。
「名雪も知ってるの?」
「うん。片山君も陸上部だもん」
 名雪は現在も女子陸上部の部長をしている。といっても、三年生なので夏の大会までだが。男子陸上と女子陸上はほとんど合同練習ばかりなので――グラウンド面積の関係で――名雪が男子陸上部の部員を知っていたとしてもおかしくはない。
「あれ? でも片山君って……あんまり体育会系の身体つきじゃないですよね?」
 記憶の中から、栞は片山の容姿を思い出す。まず思い出されるのはメガネ。温和な笑顔。そして脂肪の溜まった身体つき。百キロちかくあったのではないだろうか。
「ん〜。最近はそういう子も多いみたいだよ? 入部動機が運動不足解消とか、ダイエットとか。陸上部全体でも、真剣に大会を狙ってるって言う子はほとんど居ないんじゃないかな?」そう言ってから、女子陸上部部長はさらに続けた。「私だってただ、走るのが好きだからっていう理由だもんね」
 こんな名雪が部長をやっているのだから、陸上部全体の士気もかなり低いだろう。ついでに、成績も低い。
「片山ってどんな奴なんだ?」
「どんな奴って……あ、こんなのありますよ」
 そういって栞が鞄から取り出したのは、自己紹介カードだった。
 祐一も中学の卒業まえに同じようなのを書かされた経験がある。こういうのを言い出すのはかならず女子だ。
「高校生がこんなのやってるのか……」
「私が入院していた時に、クラスの子が持ってきてくれたんです。少しでも早くクラスの仲間に入れるようにって」
 栞は去年の二月――いや、正確には三月か――まで病気を抱えていた。
 それは命に関わる病気で、医師の所見では「次の誕生日までの命」との事だったのだが……その誕生日の日に奇跡的に病気が治り、今はもう元気爆裂の状態だ。
 祐一達は純粋にそれを奇跡と喜んだのだったが、しかし医師や両親が「はい、そうですか」と認めるわけが無い。
 結局、完治した後も検査入院として二ヶ月間、病院に拘束される事となり、学校に再び通えるようになったのは四月も終わりかけた頃だった。
 メモ帳みたいなバインダにファイリングされたその紙の中から、カの行を探し、片山という名前を見つける。
 まず目に付くのは似顔絵の欄。空白の中にメガネが浮かんでいた。
 女子はこういうところまでちゃんと描いているようだったが、男子なんかはかなり適当だ。なかには「へのへのもへじ」まであった。ホントにそんな顔なのだとしたら、絶対友達になれる。祐一は何故か確信している。
 他の欄には、氏名、住所、電話番号(携帯番号)、好きなもの、嫌いなもの、特技、座右の銘、etc……などが書かれていた。
「好きなもの。カレー、ラーメン、ピザ……う〜ん、分かりやすい!」
 思わず頷く祐一。栞の言った『体育会系じゃない身体つき』の想像図が一瞬にして脳内に浮かび上がる。
「気の良い男の子だったよ? 真面目だったし」
「そうですねぇ。あんまり目立つタイプじゃなかったと思いますけど、優しそうな感じでした。もてるタイプじゃないですけど」
「仲良く話しててもお友達で終わってしまうタイプか……俺と同じだ」
「どこがよ。女の子に声をかけては片っ端から手を出してるクセにっ」
 香里が睨みながら言う。栞と名雪も、「うんうん」と加勢した。
「なんか俺の人格全否定されるような気がするんだが……」
「言葉通りよ」
 あまりにもサラッとそう言われて、祐一はそれ以上反論できなかった。何故か、反論すればするほど墓穴を掘りそうだったから。
 逃げるように素早く話題を変える。
「でも、なんでまた部室でなんか自殺したんだ?」
「さぁ……?」
「遺書とか見つかってないんですか? 自殺なら遺書くらいあるでしょう?」
「わからない……。あ、でも、遺体の傍に紙が一枚落ちてて、そこに文字が書いてあったよ」
「そ、それって! それこそが遺書じゃないですかっ!?」
「う〜……でも、そんな感じじゃなかったけど……」
 名雪は机から――置き勉だ――ノートを取り出すと、そのページを一枚破った。
 そしてそこにペンを走らせる。
 彼女が書いたのは、たった一行。 

『すべてがLになる!』
 
 たったそれだけだ。
「すべてがLになる……の階乗?」
 ワケの分からない事を言う祐一を余所に、香里はそのあまりの意味不明さに首を傾げる。しかし、彼女が口を開くよりも早く、栞がいきなり叫び声をあげた。
「あぁぁぁぁ〜っ!!」
「な、何!?」
 隣でいきなり奇声を上げた栞に、香里達はまるで宇宙人の腐乱死体でも見るかのような視線を向けた。
「これは! これはこれはこれはこれはっ!!」
「これはこ? はこれ? れはこれ? れはこ?」とりあえず、考えつく言葉の並びを挙げてみる祐一。「なに語?」
「そうでは無くですね! これは! この文章は間違い無く『すべてがFになる』です!」
「すべてが……F?」
「ミステリですよ!」
「えぇ。確かにあなたの脳みそはミステリィね」
 率直な意見を言う香里に、何が不満なのか栞は唇を尖らせた。
「すべてがFになる、というのはですね。森先生が書き上げた傑作ミステリ小説です!」
「森先生って……森鴎外?」
「誰ですか? モリオー・ガイって」ちょっとカッチョイイですね、などとワケの分からない事を言う。「森先生といったら、森博嗣先生に決まってるじゃないですか!」
「知らないわ。有名な人なの?」
「有名も有名。チョー有名です!」
 何を根拠にそう言っているのか知らないが、しかし祐一と香里にそれを否定する事は出来ない。祐一はそもそも小説など読まないし、香里もミステリはあまり読まない。どちらかというとSF派だった。
 一方の栞は、大のミステリファンで、入院中の退屈しのぎに山ほどその手の小説を読み漁っていた。
「しかし、これどういう意味だ?」
「Lって何なのかしらね。何かの頭文字……? でも、Lで始まる単語なんて山ほど在るし……」
「それにすべてがって、何がすべてなんだ? 人間じゃないよな。人間ならみんなが、とか全員が、を使うだろうし」
「Lになるって部分も気になるわね。する、じゃダメだったのかしら? つまり、自動的にそうなるって事よね」
 いろいろ疑問点を挙げていくが、結局のところ「L」が何なのか、という点はまったく見当がつかなかった。と、そんな二人を栞が遮る。
「あっさりとこっちを無視しないでください!」
「別に無視してるわけじゃ……。それで? なんだよ」 
「すべてがFになる、の『F』が何なのか気にならないんですか!?」
 別に、と答えそうになって祐一は口をつぐんだ。口は災いの元。触らぬ栞に祟り無し。
「気になるから教えてくれ。Fって何なんだ?」
「そんなの教えられるわけ無いじゃないですか!」栞は何故か逆ギレ――いや、逆ではないか――しながら叫んだ。「ミステリのネタバレは親殺しの次に重い罪なんですよっ!」
「……殴っても良いかな?」
「ダメ。でも、ほっぺをつねるくらいなら」
 お目付け役の了承を得たので、祐一は栞のほっぺをむに〜とつねった。
「ひゃうっ、にゃにすりゅんでしゅは〜」
「いや、なんとなく」
 変形した栞の顔が予想以上に面白かったので、祐一は怒りを忘れてすぐに放した。なかなか可愛らしかったゾ、と気持ちを伝えようかとも思ったのだが、それを言おうものなら殴られそうだったので止めておく。
「ううぅ〜酷いです。極悪です。外道です!」
「ほらほら、もう授業始まるぞ。ちゃっちゃ帰れ」
「う〜。そんな野良犬を追っ払うみたいに……」
 文句たらたらながらも、時間が差し迫っているのは事実だった。
「じゃあ、お昼休みにでも」
 栞はしぶしぶながら教室に戻る事にした。




 栞が一年C組の教室に飛びこんでから三十秒ほどして、担任が入ってきた。祐一と香里に感謝。ギリギリだ。
 風間正(かざまただし)、五十四歳。大きな頭に申し訳程度に生えた髪の毛がトレードマークで、別名ガンタンク。
 何故ガンタンクなのかというと、理由は諸説あるのだが、大きなものは二つ。一つは動作が非常に鈍いこと。一つ一つの動作が見ててイライラするほどスローモーションで、歩く速度は幼児の三輪車にも劣る程だ。もう一つは、毎日言う事がぜんぜん違っている事から、身体の中で誰か別の人物が彼を操縦していて、その中の人物が――ちなみに、その人物は『小さい方の風間』と呼ばれている――毎日入れ替わっているのではないか、という非常に信憑性の高い噂からきている。
 ちなみに、栞はガンタンクの実物を見た事がない。ガンとタンクという単語から、大まかに「戦車のことだろう」と想像するだけだ。
「あー、お前達もすでに知っている事だろうが、ちょっとトラブルがあった」
 ガンタンクがしわがれた声で言う。生徒達が知っている事を知っているのに、どうして『トラブル』なんて回りくどい言い方をするのか、栞は不思議に思った。
「あー、だがお前達は気にしなくて良い。このことは先生達に任せて、いつも通り学業に専念するように」
 たったそれだけの、短い説明だった。それだけでガンタンクはいつもどおりのHRをはじめ出してしまった。
 生徒達は明らかに不満気だったが、だからといってこの教師を吊るし上げたところでその不満が解決されるわけではない、という事がわかるくらいの分別はついていたので、隣の席の生徒と雑談する程度にとどまった。
 もちろん、栞もその辺りは分かっている。
 退屈なHRを聞き流しながら、窓の外を眺める。
(あぁ、ようするに――――)




「ようするに、教師連中はだんまりを決め込んだわけだ」
 栞の正面の席に座った祐一は、手に持ったスプーンを弄びながらそう言った。
 昼休み。栞と祐一、香里、名雪の四名は学食に来ていた。六人掛けのテーブルの三分の二を使って、栞の前に祐一、祐一の横に名雪、その正面――つまり栞の隣だ――に香里という配置だった。
「ここまで予想通りの対応だとちょっと感心するなぁ」
「学校も信用を売る商売だから。トラブルがあると、企業としては致命的なのよ。隠したがる気持ちも分かる」
 祐一と香里は随分と達観している。
 とはいえ、栞も多少は理解できる話だった。小学校中学校までならともかく、高校生にもなればその辺りの事はちゃんと分かっているものだ。
 金八先生のような教師は居ないし、要らない。学校は生徒という商品を加工して流通させることで儲けるブローカーのような存在だし、生徒側も学校という自由に使える空間と学生という自由に遊べる身分、そして学歴という付加価値を手に入れられる。そこには純粋な意味での『教育』と言う概念は存在しない。仕事でしかない教師と、学ぶことを望んでもいない生徒が集まったところで、教育のしようがない。
 教育者を気取った熱血教師なんか居たところで、鬱陶しいだけだった。
「でも、教師たちの反応は、ある意味で正しい」
「えっ! どうしてですか?」
「ベラベラと本当のことを話して騒ぎ立てれば、混乱する生徒がいるからよ」
 香里はそういったが、栞には今朝の教室の状況やこの食堂の雰囲気などから考えても、そんな風になるとは思えなかった。
「たしかに大多数の生徒は問題ないでしょうね。でも、一部には精神の安定を失う生徒もでてくる。そうなると、下手をすれば新たに自殺者が出るかもしれないわ」
「後追い、ですか」
「後追いっていうのはちょっと違うけど……まぁ、意味的には間違ってないわね」
「ん〜……でも、どうして後追いなんてするんでしょうか?」
「理由は三つあると思う。一つはその人物が居ない世界に絶望して。二つ目は、死にたいと思っていても一番目は嫌だから。最後は同時期に死ねば注目されるから。今回の場合一番最初のケースは除外して良いわね」
 確かに。栞も彼には悪いが一番目のケースだけは考えられなかった。
「一番が嫌っていうのは?」
「人間は……いえ、生物は、未知のものを恐れる性質があるの。新しい環境にいきなり放り込まれるのを非常に恐れる。それは、野生の生物にとって未知であることが、自分の身を守れないこと……つまり死に直結するからね。この本能は人間にも残ってるの。だから、多くの人が「一番最初」を恐れるのは、二番目や三番目になることで可能な限り情報を収集しようとするからなのよ」
 情報を得てしまえば、未知じゃなくなるでしょ? と香里。
 他人をサンプルケースにすることで、事前に対処法が確立できる。それは犠牲と言い換えてもいい。これは日常的なところでも見られる事例だった。
「つまり、自殺の方法とその正確性を確かめているってことでしょうか……?」
「まぁそうね。なるべく苦しまない方法は無いか。確実に死ねる方法は無いか。失敗する可能性はどの程度あるのか。また、そういう事をした際の、周囲の反応はどうなのか。そういうサンプルを蒐集することで、自分が自殺する方法やタイミングを取捨選択するんでしょう。もちろん他にもあるけど。……だから、今回のように自殺が成功してしまったケースを見て、他の誰かが真似しないとは言いきれない。それに今回のは三つ目のケースにも当てはまるわ。学校で自殺と言うのは確かに目立つ。誰かへの後ろ向きな復讐の思いがあったりすると、こういう騒がれやすいパターンの死に方を選ぶ」
 困った事にね、と香里はため息半分に呟いた。
 自殺するんだったら一人で勝手にすれば良いのに、と言っているように聞こえ、栞は一瞬だけ身体を震わせてしまった。
「でも、ホントに自殺だったのかな?」
 それまで黙っていた名雪が、ふと呟いた。相変わらず眠っているように見えたのだが、どうやら一応聞き耳はたてていたらしい。
「片山君、そんな風には見えなかったけど……」
「でも、片山君って結構苦労人なんですよね?」
 渡りに船とばかりに、栞が指を一本立てて思い出したようにそう言う。しかし名雪は「そうなんだ?」と聞き返した。どうやらあまり詳しくは無いらしい。
「確か、ご両親がいないって話でした。今もアパートに一人暮しで、アルバイトで生計をたててるとか……」
「なんであなたがそんな事知ってるのよ」
「一度、片山君の家にテレビやCDプレイヤーが無いって話になったんですよ。その時に教えてもらいました。なんか、新聞も取ってないそうですよ?」
 他にも、時計が腕時計しかないとか、今年はカレンダーを貰えなかったから無いとか。それらの話はもちろん片山本人の口から語られたものなので、信憑性は高い。彼はその話をするのをそれほど気にしていない様子だった。……少なくとも、栞にはそう見えた、という意味だが。
「生活苦しい奴が、太ってるのか?」
「それってなんかすっごい偏見だと思うんですけど……。それに、片山君って料理好きらしいんです。どんな貧乏で住む場所や着る物が無くっても、美味しい食事さえちゃんと摂っていれば、心が荒む事は無い。って」
「なるほどなるほど。食べることが生きがいってやつかぁ……」
 祐一の言い方は微妙に違うニュアンスだったが、栞はあえて訂正する気にはなれなかった。概ね間違ってはいないのだから、構わないだろう。 
「でも、他にもなぁ。部活でイジメとかあったんじゃないのか? ほら、先輩とかがさ。『おい、なんだこりゃ! 俺が買ってこいって言ったのはコカコーラだろうが! ペプシなんて甘ったるくて飲めるかこの大陸間弾道馬鹿がっ! そ、そんなっ。コーラなんてどれも一緒じゃないですか。ばっきゃろー! コーラといえばコカなんだよ、コカ! おら、バツゲームだ! ペプシマンの真似してみろ! で、できませんよぅ。やれってんだろ! この今週のビックリドッキリ馬鹿がっ! うぅぅぅ〜……しゅわぁわわわわぁぁ』」
 唐突に立ち上がり口をOの字に開けながら右手を開いて左右に捻るように動かす祐一。だが彼の意味不明な行動はいつもの事なので栞たちがあっさり無視すると、少しだけ悲しそうな顔をして普通に座りなおした。
「そんなに注意してみてたわけじゃないから無いとは言えないけど……。でも、そういう雰囲気があったら気づくと思う」
「まぁね。イジメなんて、気づかないのは教師だけだもの。でも、自殺の動機がないとなると……殺人?」そう言って、しかし香里は自ら苦笑した。「まさかねぇ」
「あのプレハブ、密室だったんですよね? だったら密室殺人ですかっ!」
「密室……? 名雪、鍵は?」
「ん? ん〜っと、普通の鍵だと思うよ?」
「南京錠?」
「ううん。スライド式の鍵だよ」
 プレハブは更衣室も兼ねているので外からは当然、内からも施錠できるようになっている。外からは通常の鍵で、内からはレバーを上下にスライドさせることでロックするタイプだった。
「特に難しい機構じゃないから、合鍵を作るのは簡単ね。ピッキングでも開けられるんじゃないかしら?」
「ピッキングって……道具が必要なんじゃないですか?」
「インターネットで手に入るわよ? 多少使い方を知っていれば、素人でも開けるのは難しくないわ。夜中なら時間をたっぷりかけてできるし」
 この学校の夜間のセキュリティーの甘さは、生徒達の間では有名だった。誰かに目撃される危険性も無く、安心して出来たことだろう。一方の合鍵という可能性も十分にある。そもそも、合鍵を作る必要すらないのだ。学校の鍵と言うのは職員室やその他の重要な場所以外はかなり管理が甘い。毎月のようにどこかの鍵が紛失しているし、その際の対応も皆無と言って良い。誰かが紛失したふりをして隠し持っていてもおかしくは無かった。
「まったくもって、これぽっちも密室じゃないわね。っていうかそれ以前に、密室だったら本人も入れないでしょうが」
「う〜……」
「なんで不満そうな顔してるのよ? 密室殺人の方が良かったの?」
「そうじゃないですけど……」
 ミステリ好きな栞としては、こうもあっさり密室殺人の可能性を徹底的に潰されてしまっては面白くないのだろう。残念ながら、まともな思考とはいい難い。
「それじゃ、栞のためにちょっとミステリーっぽいトリックを考えてしんぜよう」
 ちょっと栞を焚き付けないでよ、という香里の言葉を完全無欠に遮って、栞は一転明るい顔で飛びついた。
「トリックですかっ!?」
「おう。そうだな……もしかしたら、逆だったりとか、な」
「逆?」
「そう。内と外が。内で殺して、外に逃げたんじゃなくって、外で殺したあと、内を作ったのかも」
「……それって、どう違うんですか? 何処で殺したか、が違うだけじゃないですか」
「違う違う。えっと、つまりだな……」
 祐一は口で説明するよりも図で説明する方が良いだろう、と『すべてがLになる!』と書かれた紙に、立方体の展開図(十字架のようなアレだ)を描いた。そしてその図の、四角が三つ横に並んだ真ん中に、人の絵を描いた。
「こういう事だ」
「……こういう事?」
「あぁ、なるほど。プレハブだものね」
「う〜! 全然わかんないですよ!」
「つまりね、栞。殺した後で、プレハブを組み立てたんじゃないかって、相沢君は言ってるのよ」
 プレハブはもともと後で取り壊すことを考えた、簡易的な建物だ。だから鉄筋で壁を作ってもいないし、屋根を支える柱も無い。床、壁、天井の大まかに六枚の板をプラモデルのように組み立てただけの建物に過ぎない。ちなみに、当たり前のことだが祐一が描いたような展開図を組み立てるわけではない。あれは単に栞への説明の為に描いた分かりやすい図解だ。
「でも、可能かしら?」
「プレハブだろ? 基礎工事もできてるんだし、解体して――もちろん一部だけだが――もう一度組み立てるって程度ならそんなに時間はかからないと思う。それに夜中なら、目撃される危険性もないし。――――ただし、専門の技術を持った奴が何人か必要だろうけどなぁ。あと、機材も」
「実現はまず不可能ね」
「あぁ。言うはやすしってな」
「う〜。やっぱりダメなんじゃないですかぁ。……他にはないんですか?」
「他にはなぁ……。そう。例えば、地面から侵入する、とか? あのプレハブの下は地面だろ? 床板さえ外しちまえば地面を掘って侵入することができる。――――犯人はきっと、両手がドリルのスーパーロボットか、モグラ星人だな♪」
 祐一は笑いながら無茶苦茶言う。
 どうやら栞をからかっているつもりのようなのだが、当の栞本人が自分がからかわれている事に気づかないで、「スーパーロボット? モグラ星人?」と本気で首を傾げている。
 そんなおバカな光景に呆れた香里が、見かねて口を出した。
「相沢君、あなた最近、日に日に馬鹿になっているように思えるわ」
「ん? そりゃまぁな。人間ってのはみんな馬鹿になっていくのさ。それが成長と言う名の老化、衰退なんだからな」
 おどける祐一の言葉に、栞が反応した。
「老化? 衰退?」
「人間は生まれたその一瞬から、どんどん死んでいく。一般的にそれは成長と呼ばれ、経験をつむこと、肉体的に強くなることを讃美しているけど、実際にはそうじゃない。人間の本質は、経験……つまり知識だな。そんなのや、まして肉体的な強化にはない」
「肉体的な強さはともかく、知識の多さも、成長じゃないんですか?」
「あぁ。何故なら、人間の本質は、知識を集めることじゃないからだ。人間の本質は、つねに考えること。思考の飛躍にある。確かに、一般的に多くの知識を持つ者は、それだけ広い視野を得る。普段何気ない現象でも、原理を知っている人間と知らない人間とではまったく認識のレベルが違う。知らない人間より、知っている人間の方が強いといえる。……この強いって表現は、あえて分かりやすい表現を使ってるんだからな? 優劣と勘違いするなよ? しかし、同時に知識は思考の飛躍を制限する。常識を教えられた人間は、常識を飛び越えることは出来ない」
「でも、それはとても大切なことよ。人間を殺してはいけない理由は、殺してはいけないと言う常識があるからだもの」
「そう。それは、社会のシステム上、そうする事でしか自滅を未然防御できないからだ。一人一人の思考の飛躍を制御し、社会という地面に、常識と言う鎖で縛りつけなければ、システム全体を維持できないからだ。つまり、人を殺してはいけない理由は、殺してはいけないと教えられたからにすぎない」
 子供は死人を前にして泣くだろうか?
 泣きはしないだろう。あるいは、笑うかもしれない。
 死が悲しい。殺人はいけない。昔は懐かしい。
 そのどれもが、人間が本来持っているものではなく、成長の過程で教育として脳に植え付けられたものでしかなかった。
「では、常識とはなんなのか。それはつまり、単純化だ」
「単純化?」
「そう。もともと、生まれた瞬間の子供には自身の内部に境界が無い。善と悪、生と死、自分と他人、内と外。あらゆる思考に、境界が無い。子供は周りの子供が泣くとつられて自分も泣くだろ? それは自分と他人の明確な区別がないからだ。それを、人間は成長と言う言葉によって区分し、単純化していく」
「区分することが、単純化なんですか? 普通、一つにまとめることをいうんじゃ……」
「それは違うわ、栞。一つにまとめることではなく、沢山の物の中から一つと言う形を作ることが単純化なの。……単純化の大前提は、他人にわかりやすい形に括る、という事だから。もともと、全ての存在は誰にも区分されず、混在した状態を保っていたの。それを、人間が一つ一つ分けていった。例えば……これは猫、これは犬っていう具合にね。もともとは、猫は猫という区分けをされなくても、初めから猫だったし、犬も初めから犬だった。そこに境界はなく、あったのは在り方の違いだけ。でも人間が、猫の形をして、猫のように生きる存在を、すべて猫として区分けした。そうしなければ、他人との情報……意味・価値の共有が出来なかったからよ。これが常識……つまり社会のシステムの第一歩ね」
「言語化はすべて、単純化といえる。言葉には、他人と意味を共有できなければならないという前提があったから、仕方ないな。椅子といえば、俺達全員がどんな物かを想像できる。椅子は、椅子と言う言葉がある前から椅子だったし、その在り方も区分される前から、今もまったく変わっていないのに。そして、椅子と言う区分を受けてしまったものは、最早椅子以外にはなれない。椅子はテーブルとしては使えない。ほら、思考の飛躍が制限されてしまった」
「う〜……じゃあ、単純化することは悪い事なんですか?」
「そうじゃない。悪とかそういう言葉で区分することもまた単純化だな。善悪で分割しなければ、犯罪を防止できない。自分の身も守れない。人間は人間を知るために自分を単純化、つまり削っていかなければならない。だから成長を老化と言ったんだ。でもそれが良いとか悪いとか、そんなレベルで議論しているんじゃないし……ま、だからどうしたって程度の話だよなぁ」
 祐一はおどけて言った。確かにどうでも良い話とも言える。だが同時に、栞にはそこにとても重要なものが含まれているようにも感じていた。
「えっと、何の話だったかな。そうそう、人間の本質だ。良いか? 栞。人間の本質ってのは結局、そんな知識の類でもなければ、肉体の強化でもない。長く生きて知識を溜めこむことが人間の能力じゃない。そんなのはコンピュータに任せればいい。これまでだって、知識の保存は全て人間の脳ではなく、紙なんかに頼ってきただろ? そんなのは結局の所どうだって良いんだ。大事なのは、考えること。想像し、創造すること。得た情報から自分なりの思考を導き出すのが人間の本当の能力なんだ。これは他の誰もできない。道具を使う動物は沢山いるけど、道具を作れるのは人間だけだ。神様を創れるのは人間だけだ」
 もし、これまでの人間の最高の発明といえば? と聞かれたら、祐一は「神様」と答えるだろう。いかなる発明も、これほど世界を、そして人間を支配できたものは無い。 
 だが、祐一の話は難し過ぎたらしく、栞は頭の周りに星を飛ばしながら首を傾げていた。
「う〜ん……つまりどういう事なんです?」
「つまり? つまり……つまりだなぁ……。うん、つまり。要するに、胸が小さくっても気にすることないぞって事かな?」
「なんですかそれはっ!」
 ドガンッとテーブルに手を叩きつける栞。その表情はまさに鬼だった。
「まぁまぁ、ちょっと待てって」慌てて抑える祐一。「勘違いするなよ、これは比喩だ。胸が小さかろうと、美人だろうと、成績が優秀だろうと、運動神経抜群だろうと、お金持ちだろうと。そんなのはどうでも良いんだ。それは、誰かと価値を共有する為の物差しに過ぎないんだ。それは決して……そう決してだ、その人間そのものの本質とは交わらない」
「はぁ……。えっと……」
「わかんないか? つまり……俺はお前を愛してるって事だよ」
「えぇっ!?」
 祐一の、あまりにも唐突な告白に栞は、そして香里と何故か名雪までが大袈裟に反応した。
「な、な、な……何なんですか! いきなりそんな事っ!」
「あはは。ま、気にするなよ」
「気になりますよ〜」
 頬を真っ赤にしながらオロオロと問い詰める栞に対し、祐一はただ笑うだけでそれ以上何も言わなかった。
 ……というか、言えなかった。
 何故なら、栞、そして香里と名雪以外にもその発言は周りに聞こえていたらしく、周囲数メートルから物凄い視線が祐一に突き刺さって来ていたのだから。こんな状況でそれ以上何を言えるか。
 そんな真昼のイタイラブコメ空間を切って裂いたのは聞きなれた声だった。
「お、ここにいたのか」
 栞達が顔を上げると、そこには見知った顔。見知った触覚。三年生になって祐一達とは違うクラスになってしまった北川潤が居た。幸い、先ほどの会話は聞かれていなかったらしい。
 北川とは、今でもこうして偶に会って話をしたり一緒に食事したりする。残念ながら今日はもう食事が終わった後のようで、手にはご飯粒が幾つか残っているだけの丼があった。
「お? なんだこれ……」
 テーブルに置かれたままだった『すべてがLになる!』という紙を見つけ、北川が聞いてくる。
「あ、それは……」
「……あぁ、ピザか」
「……は?」
 北川の思わぬ言葉に、栞達はそろって首を傾げた。
「これ、例のピザ屋のキャンペーンのキャッチフレーズだろ? 俺も絶対食おうと思ってたんだけどなぁ、一人でピザって凹むしさぁ。友達皆無かよ! って感じで。それにLサイズだろ? 一人じゃ食えねぇっての」
「ちょ、ちょっと、どういう事!?」
「あぁ?」
「これがピザ屋のキャンペーン? のキャッチフレーズ?」
「違うのか? 『すべてがLになる』って。ほら、この前マイナーなピザ屋が新規オープンしてさ、そのキャンペーンとしてすべてのピザがMサイズと同じ値段でLサイズにって……。あ、でも今更遅いぞ? だってこれ、一昨日までだったからな」
 北川の言葉に、一瞬……香里は言葉をなくし、そして祐一はため息をついた。疲れた、と言う風に身体を脱力させる。
 なるほどね。口に出さず、そう心で呟く。
「祐一さん? お姉ちゃん?」
「まいったわ……。まさかそんなの考えもしなかった。ねぇ、どう思う? 相沢君」
「やられた……。信じられないけど、有り得ないわけじゃない」
「でも……あ、そうか。彼の生活環境!」
「あぁ。ピザは高いからな。一世一代のチャンスだったんだろ」
「となると、何か引き金があったはず……」
「たぶん部室のカレンダーだろ。テレビも新聞も無い生活じゃ、日付を忘れてもおかしくない」
「なるほど。そういう事なのね。……たった一文字のエクスクラメーションマークに込められた思い、か」
 勝手に二人で会話を進めてしまう祐一と香里に、栞は口を挟んだ。
「えっと……どういう事なんですか? ちゃんと説明してください!」
「相沢くん」
「譲る」
「……しょうがないわね」
「だからっ!」
「分かったから。えぇっと……なんと言ったら良いのか……。落ちついて聞きなさいよ?」そう前置きする。「まぁ、つまり――――単純化できない動機もあるって事よ」
 そう言って、香里は苦笑した。




 クラブ活動が禁止された校庭はいつものような活気もなく、人の影もまばらで、どこか寂しげだった。
 美坂香里も相沢祐一も居ない。こんな日は、一緒に帰って欲しかった。
 香里は買い物が有るという事で止める間もなく帰ってしまったし、祐一は校門前で待ち合わせていた去年卒業した先輩二人――ともに女性だ――と一緒にどこかへ行ってしまったのだ。
 なんだか無性に腹が立って、でもそれを吐き出す術を知らず、栞は昇降口で一人立ち尽くしていた。紅く染まった世界は炎のように綺麗なのに、どこか寂しい。その光に栞は顔を歪ませた。
「栞さん」
 声をかけられ、栞は慌てて泣きそうだった表情を整えた。自分で「大丈夫」と言い聞かせ、振りかえる。
「美汐ちゃんっ」
「上級生にたいして、ちゃん付けですか?」
「う゛」
「……冗談です」
 天野美汐は微笑むわけでもなく、真顔のままだ。
「酷い、美汐ちゃんっ。最近、祐一さん化してますよっ!」
「そんな酷なことはないでしょう」
 そう言いながらも、美汐は嫌そうではなかった。
 たしかに、美汐はバカになった。愚か、という意味での馬鹿ではなく、それまでははち切れんばかりに張り詰めていた何かから、ゆっくりと空気が抜けて本来の形へ戻っていくような、そういう意味でのバカだ。
 親しくなってそれほど時間がたったわけではないが、その短い間にも、彼女はどんどん可愛らしくなっているように思えた。
「どうしたんですか? こんなところで」
「うん……ちょっと」
 一瞬迷ったものの、今この気持ちを一人で溜めこむのは良くないと判断し、栞は今朝あった事件、そしてその後祐一のクラスと昼休み学食での会話の内容を――ただし、祐一の告白については割愛して――語った。
 文法のしっかりしていない栞の喋りは、無意味に長ったらしく、時に意味不明な部分があったが、美汐は黙って聞いていた。
 やがて、全てを語り終わって……美汐はやっと口を開いた。
「どうして……今回の件に、そんなに関わろうとしたんですか? クラスメイトだからですか?」
「それも……有ると思う。でも、それ以外にも……」栞は首を振る。「私が病気だったのは知ってますよね? 私、その時に一度、自殺しようとしたことがあるんです。わざわざその為にカッターナイフまで買って。家に帰って、それを手首に押し当てて……でも、私は死ねなかった」
 あのときの自分は、間違いなく本気だった。栞は今でもそう信じている。
 だが、実際にはそれは叶わなかった。その直前に、ある人物に出会ったからだった。
「死ねなかった理由は分かってるんです。でも……不思議なんですけど、どうして死のうと思ったのか、それがわからないんです」
「人生を悲観して、ではないんですか?」
「それもあると思うけど……。他にも家族のためとか、逆に家族に対する復讐みたいな気持ちも。でも、どれが正解なのか分からなかった……。全部正解だし、全部違うような気もするし……」
「なるほど。だから他人の自殺の原因を調べることで、そこに類似性を見出そうとしたわけですね。サンプルケース、ですか。それで? 何か得るものがありましたか?」
 栞は首を振った。
『すべてがLになる!』
 その言葉の意味を知ったとき、栞は確かに呆れた。あまりにも馬鹿げた死だった。
 世界中の、死にたくないのに否応無しに死んでいく沢山の人達に対する冒涜……そんな風にもとれる死だった。
 でも……ふと、考える。それが本当の原因だったのだろうか? 彼が自殺を選んだ理由は、本当にそれだけだったのだろうか? あるいはもっと別の理由があるのかもしれない。複数の、複雑な理由が。
 ……また、あるいは何も無かったのかもしれない。理由なんてなかったのかもしれない。
 分からない。
 全ては不定。
 人が死ぬ理由なんて、誰にも分からない。
 分かるわけがないのだ。
 人は……生きてる理由さえ、知らないのに。
 だけど、分からないからそれを探求する必要は無い、というのはすこし違うような気もしていた。きっとこの事件(事故)を、警察や学校は適当に動機を押しつけて、単純化して、それで終わらせてしまうだろう。まさかあの『L』が何の意味を持っていて、それが原因だったなんて本気で思わないはずだ。もちろんそれ以外の、隠れているかもしれない動機にも気づかない。
 いや、あるいは……そうやって理由を探すことすらも単純化なのかもしれない。
 しかし、栞はそれがすごく悲しいことだと思った。
 一纏めにされた『動機』達の中に込められた意志は、皆いっしょくたにされて消えていく。
 単純化……。
 言葉に出来ない想い、他人に伝えることの出来ない意志は、この世には遺らない。例え、どれほど高尚であっても。どれほど素晴らしいものであったとしても。人間の本質を伝え、遺すことは出来ない。文字や数字や図形はコンピュータで残せるのに、人間の本質は本人以外に保存できない。
 同様に、自分が自殺しようとしたあの日の記憶は……本人すらわからないあのときの感情は、もうこの世には存在しないのかもしれない。過去の闇に『動機不明』、あるいは何か適当な動機をつけられて消えていってしまったのかもしれない。
 そしてそれを探り出したとしても、無為な単純化された『言葉』がでてくるだけだ。沢山の言葉の中の一つ、その中のどこに自分の意志があったのかはもう判別できない。
 栞はまた不安定になっていく自分の心を認識していた。
 そんな感情は、表情にも出ていたのだろう。隣で美汐が小さくため息を付いた。
「栞さん。あなたは、相沢さんに「愛してる」と言われたことはありますか?」
「へ? わ、わぁ……どうしてそんな事聞くんですかぁ?」
 唐突な美汐の直球勝負な質問に、栞は昼休みの出来事を思い出して顔を赤らめた。そんな彼女を見て、美汐は何故か半眼で「いいです、もう。その反応で分かりましたから」と言った。
「栞さん。……相沢さんは……人間の本質に対しての話をしたんですよね? その上で、あなたのことを「愛してる」と言ったんですよね? だとしたら……それはとても羨ましいです」
「え……?」
「人間の本質の理屈を知っている人間は、簡単には人を愛せません。外見や、言動といったそういうアウトプットされたものを、素直に愛せないからです」
「……?」
「分かりませんか? 相沢さんは、あなたの事を、本当に愛すると言ったんです。あなたがどんな顔で、どんな身体で、どんな性格で、どんな人間だろうと。何処にいて、何を考えて、何をしていようと。富んでいようと、貧しかろうと。美しかろうと、醜かろうと。賢かろうと、愚かだろうと。そんな物ではなく、あなたの本質を……「生」そのものを、愛すると言ったんです」
「っ――――」
「これ以上に、完璧な愛があるでしょうか? これ以上に、羨ましいことがあるでしょうか? 多くの人が外見やお金、あるいはアウトプットされた性格で好きになる相手を選んでいるこの世の中で、これ以上の完璧な愛情は他にありません。……そして、それほどまでに愛されているあなたに、死を望んだ理由を思い出さなければならない理由などあるのでしょうか? いいえ。そんなもの、必要ありません。自分が死のうとした理由を見つけ、それを否定することで不確かな生を立証する(・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。そんな馬鹿げた行為、必要ないんです。あなたはもう、これから……胸を張って祝福された『生』を生きればいい――――」
 死んだ理由。
 死に魅入られた自分。
 奇跡を受け入れられなかったのは、
 両親や医師だけじゃない、
 自分も同じだ……。
 突然ふってわいた奇跡に、
 何の代償も無く得た残り時間。

 ――――今自分が生きている事は、本当に正しいのか。

 でも、祐一はそれでも愛すると言った。
 栞の、もしかしたら間違って助かってしまったのかもしれない『生』を、それでも愛すると。
「うっ……ク」
 栞は……気づかずに泣いていた。
 悲しくて泣いた。嬉しくて泣いた。
 そこに、境界は無かった。
 悲しかったし、嬉しかった。
 一つの言葉で言い表せるほど、単純な感情ではない。
 それは、他人が理解できないというだけではなく、栞自身にすら理解できない感情だった。
 辛くて泣いた。
 腹が立って泣いた。
 愛しくて泣いた。
 優しい気持ちになって泣いた。
 境界なんて何処にもない、単純化される前の、純粋で原始的な涙だった。 
 この涙も、世界には記録されないのだろう。
 過去の闇に、消え去ってゆくのだろう。
 でも、栞は少しだけ、それでもいいかと思った。
 誰に伝えられなくても、
 残すことが出来なかったとしても、
 それを愛してくれる人達が傍にいるから……。

 伝えることの出来ない想いを――――

 保存できないワタシを――――

 愛してくれるアナタがいるなら――――――――――――――



「ありがと。泣くだけ泣いたら、スッキリしました」
「えぇ、そうでしょうね。私も泣いている人の傍に立ち尽くすという、端から見れば酷く誤解されそうな状況から開放されて、スッキリした気分です」
 口調はちょっと厳しいが、美汐の表情は柔らかかった。これも、彼女なりの冗談なのだろう。
(まだまだ、修行が足りんよっ)
 ヘタクソな優しさを振りまく友人の姿に、栞はクスッと笑った。
 そして、ちょっと無様な姿を見せてしまった報復に――かなり一方的な理屈だが――栞は問い掛けた。
「そういえば美汐ちゃん。さっき羨ましいって言ってましたけど、それってどっちに対してなんですか? 本質を愛してくれる人がいるっていう事? それとも、祐一さんが愛してくれる事?」
「――――っ!!」
 栞がそう聞いた瞬間、美汐の表情が劇的に変化した。
「そういう駆け引きには応じられませんっ」
 やや裏返った声で言い切り、美汐は早足で歩き出した。
 一瞬だけ見えたその顔は、林檎のように紅く染まっていた。
 それはきっと夕日のせいだけではないだろう。
 その可愛らしい反応に、栞はお腹を抱えて笑った。
(強力なライバル? でも負けないっ♪)
「待ってよ、美汐ちゃ〜ん」
 紅く染まる空の下を少女は、友人の背中を追って駆け出した。
 その顔には、冬の雪のように積もっていた悲しみの色は溶け、今はもう、春の清清しい微笑だけがある。
 



―了―






あとがき

森博嗣先生に愛を込めて♪
……というわけで、「すべてがLになる!」書きあがりました。
本作は「美少女探偵美坂香里の事件簿」の番外編的な位置にある作品です。(ミステリじゃないですけど
とくにSSという事を意識せず、書きたい事を書きたいように書いてみました。
……どうでしょ? ちょっとやばいですか?
結構短めの尺に詰めこんだのですが、雨音的には必要な部分は全て書けたと思います。
病気が完治した後の(つまりゲーム終了後の)栞の心情。
人間の本質と、祐一のちょっと自己満足と自己犠牲が過ぎる愛情。
自殺と、その理解できない動機。単純化。
美汐の可愛さ♪(違っ
結構力入れて書いた作品なので、感想とか貰えたら嬉しいです♪

次のKANONは……おそらくコンペでしょうね(ぉ
「美少女探偵〜」の本編は7割近く出来上がっているんですけど、そこから全然進みません(涙
今年中にはUPしたいなぁ……。
書きあがれば、生テキストで100kb超えのホワイダニット・ミステリになりますので、期待していただければありがたいです。

でわでわ。
次の作品でお会いしましょう〜♪




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