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ごった煮SS・とりとめのないストーリー2
『協調性に欠ける乙女達』
後編
「ここから、奥へ入ったところですね?」
秋葉の質問に、少女がコクンとうなずいた。
四人がたどり着いた場所は神社の裏手から山頂まで続く、細い小道の途中だった。
大きな杉の木が立ち並び、天井をその葉が埋め尽くしている。おかげであたりはわずかに漏れてくる月の光以外には真っ暗だった。
それほど登ってきた訳ではないようだが、ほどんど人が使っていないその道は下駄で歩くには不向きで、すこし時間がかかってしまった。
木々の向こうから、かすれたお祭りの喧噪が聞こえてくる。離れた場所の喧噪って言うのは、どうしてこんなにも寂しげな感覚を与えてくれるのだろう。
いますぐに下れば、十分もたたずに元居たその場所に戻れるというのに、なぜか隔絶されたような・・・そんな寂しさを感じてしまう。
「なんか出そうな感じよねぇ」
「なにをふざけたことを言ってるんですか。せっかく着いてきてあげたんです、さっさと行きますよ!」
「あいあい。ほら、梓も行くわよ」
「あ、うん」
ここから先は道を外れ、林の中を歩いていかなければならないらしい。
ここまで来るのにも大変だったのに、湿った土と隆起する根という最悪の障害物をこれから下駄で乗り越えていかなければならないのだと思うと・・・辟易せざるを得ない。
だが・・・後ろを振り向くと少女がペコリと頭を下げていた。
行かねばなるまい・・・。
「じゃ、ちゃっちゃと行きますか!」
「おぉ〜!!」
一歩・・・道を外れる。
二歩・・・下駄が湿った地面に少し沈む。
三歩・・・嫌がらせのように飛びだした根っこを、お返しとばかりに踏みつける。
四歩・・・変化が、起きた。
「あ、れ・・・?」
感覚が消えた。それまで本能レベルで感じ取れていた周りの気配・・・空気の流れや匂い、人や障害物の位置関係など・・・が全て分からなくなる。
別に目が見えなくなったとか、耳が聞こえなくなったとかではない。目も見えるし耳も聞こえる。五感は完璧に働いている。むしろ、普段から尋常ではない梓にとっては、普通の人間に戻っただけの事なのだ。
だが、普段から無意識に感じ取り、そして無意識に頼っている「気配」という物が感じ取れなくなったことは、それに慣れすぎている梓の脳味噌を一瞬パパニくらせた。
「おあぁっ!?」
下駄の歯(?)を根っこにひっかけてしまった・・・そう気がついた瞬間にはもうすでに遅い。
身体が前に倒れ・・・ベチャリ、と地面に両手を着く羽目になってしまった。
「うぅ・・・手が汚れたぁ・・・」
「何を遊んでるんですか。たかだか第六感を奪われたくらいで・・・しっかりしてください」
ため息混じりのその言葉は、当然秋葉の物だ。
だが、その彼女も梓のその反応が分からないわけではない。
秋葉も普段から気配を感じ取りながら生活している身なので、それが突然奪われたときの困惑は分かる。もっとも、別にそれに頼り切っている訳ではないので、無いならないでも全く支障はないのだが。
そう・・・せいぜい多少、不便になるだけのことだ。
「・・・これが陣の効果なわけ」
「その一つですね。ただ単純に気配を感じ取れなくなると言うだけの陣では無いでしょうから・・・」
そう言って、秋葉は紅赤朱モードへと変移した。
「・・・この陣を作ったのはだいぶ強い術者だったようです・・・普段の半分ほどの力しか出ないですね。梓さんはどうですか?」
「ん・・・ちょっとわかんないね。でも、体が重くなった感じ。さっき転けたのも、根っこに気づけなかっただけじゃなくって、思ったよりも足が上がらなかったっていう理由もあるから・・・」
筋肉が疲労しているわけじゃない。
・・・筋肉が全て完璧に動いてないんじゃないかと、そんな感じだ。
「だらしないわねぇ、二人とも!」
と、その元気な台詞は、もちろんの事ながら普通の人間の綾香だ。
彼女には陣の効果は働いていないらしく、まったくピンピンしている。
「さぁ、さっさと歩く!」
跳ねるように、軽い足取りで道なき道を進んでいく綾香。
いくら気配を感じ取れているからと言っても、普通の人間にこの暗闇のこの地面をあんな風に歩けるはずが・・・。
「あんたも充分、バケモノだよ・・・」
「え?何か言った?」
「いや、何も・・・」
振り向く・・・しかも歩きながら・・・綾香に対し、梓は何も言えなかった。
その横で、同じ思いなのだろう秋葉が呆れたように顔をしかめた・・・。
それから後は、しばらく会話は無く、三人は無言で山を登り続けた。
というか、しゃべることが出来なかったと言った方が正しい。
どんなに足下を注意していても、この暗さではどうしても足をすくわれてしまう。
ここまでで通算、梓は5回、秋葉は2回、そして綾香も足を滑らせて1回、地面に手をついてしまっている。
まぁそんな状態なので、しゃべっている余裕などなかったのだ。
「はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・」
こめかみから頬へ、汗の滴が一つ、もう一つと流れていく。
いっそのこと、鬼の力を全開にしてしまおうか・・・と梓は思った。
周りの二人に影響を与えてしまうかも知れないが、少なくともこの疲れはなくなるだろう。
いや・・・違うか・・・。
先ほどの秋葉の話を聞く限りでは、この身体の重さは陣の影響だという事らしい。しかもその影響は、相手が純血のバケモノに近ければ近いほど強くなる・・・。
だとすると、下手に鬼の力を使うのは逆効果になるのかも知れない。
「二人とも、随分疲れてるみたいねぇ。すこし休む?」
「・・・いや、行こう」
その綾香の提案はひどく魅力的だったが、こんな場所ではゆっくり休むこともできない。
「そうですね。日付が変わる前に帰りたいですし・・・」
「いや、そういうことではない」
ここまで来て置いて、まだ早く帰ることを考えている秋葉に苦笑しつつ、梓は足を進めた。
辺りには相変わらずの木、木、木。
視界を塞ぐ数多の木々と、湿った空気と香しい自然の匂いが充満した空間・・・
それは・・・どこかで・・・
「なんか・・・記憶にある風景なんだよなぁ・・・」
「風景って・・・こんなに暗いんじゃ、風景も何もないでしょうが」
「いや、そうなんだけどさ。でも・・・なぁんか、記憶の中にこの風景があるんだよねぇ」
「木々の多い場所はみんなそんな感じですよ。太い幹は視界をふさぎ、天井のように枝葉が光を遮る。森は一種の密室です。人間の感覚を奪い、迷路のように迷わせ、「出られない」という閉鎖感を与える。・・・お二人は意志を持った森を知っていますか?」
そう問われ、二人は首を振った。
「その森の奥には、食べると不老不死になれるという実が生る樹があるのです。当然、多くの人間がその実を求めて森を訪れました。ですが・・・複雑怪奇な森の中は人間が探索できるほどなま易しい物ではなく、ただの一人も生きて帰ることは出来なかったのです。そう、森はまるでチョウチンアンコウのように自分に生る実を餌にして人間をおびき寄せ、その人間達を殺して養分を吸収していたのです」
「な、な、なんで・・・そんな事を今話すのよ・・・」
「いえ、他意はありません。ただ、この状況はまさにそんな感じだと思っただけの話ですから」
ただそれだけの事です、と秋葉は何事もなかったかのような顔だったが、対する梓と綾香はいい気分ではなかった。
さきほどまで何気なく見ていた木々が突然とんでもないバケモノに見え始めてきたのだ。
「た、性格(タチ)悪いよ・・・」
「まったく・・・」
「何を言ってるんですか!それよりも・・・見えてきましたよ」
「え?」
言われ、きょろきょろと落ちつきなく揺らしていた視線を秋葉の示した方向へ向ける。
木々の壁がある地点でなくなっていて、その向こうは月明かりに照らし出されていた。
「随分、古くさい感じの・・・家、ね・・・」
それは明らかに現代の物ではないと思われる、一軒の家だった。
藁葺きの屋根、木材のみで組まれた柱、風通しの良さそうな障子戸。
「生活が行われている感じがありません。古い廃屋のようですね」
「あそこに、居るのかしら?」
「わかりません。まさか不老不死の実が生ってる、という訳じゃないでしょうが、何かあるのは間違いないでしょうね」
「そうね、行ってみましょう・・・って、梓ちゃん?なんで固まってるわけ?」
「・・・知ってる・・・」
自分は・・・知っている。
あの屋敷を。
この風景を。
自分は・・・知っている。
いつだったか・・・。
遠い昔?
つい最近?
ここに来たことがある。
自分はここを訪れたことがある。
「何故・・・?」
どうして?
なぜここに来たことがある?
こんな所にはだれも住んでない。
ここを訪れる必要なんて、無い。
・・・違う?
住んでいた?
私じゃない?
知っている?
遠い昔?
最近?
誰?
誰?
「誰が・・・住んでたんだ?」
あたしは・・・それを・・・知っている!?
「梓っ!?」
「おわぁっ!」
突然、綾香に猫騙し(目の前で両手をたたき合わせる)をされ、梓は我に返った。
「お、脅かすなよ・・・」
「どうでも良いけど!あたし達を放っておいて、自分だけで勝手に固まらないでよ!意外に思うかも知れないけど、あたしってのけ者にされるのが大っ嫌いなの!!」
「意外でも何でもありませんけどね・・・まぁ、私も同意見です。梓さん、固まるのはあなたの勝手ですが、こちらに一言説明してくれてからでもよろしいのではありませんか?」
「いや、説明って言われても・・・」
梓本人にも、よく分からないのだ。
知っている。自分はこの屋敷のことを知っている。
だけど、それがいつの事なのかはさっぱり思い出せない。
ただ一瞬、二人の男女の姿が・・・見えた気がした。
夫婦なのか、恋人なのか、はたまた兄妹なのか・・・そこまでは分からなかったが。
「それって、子供の頃の事なんじゃないんですか?梓さんは地元なんですから・・・ここに来たことがあってもおかしくないでしょう」
「そう・・・かもね」
子供の頃・・・自分はここに来たのだろうか?
記憶を振り返ってみるが、そんな覚えはなかった。
そのころ梓が頻繁に訪れていたのは神社からはだいぶ離れたところにある水門の方で、こちら側にはあまり来た経験は無かった。
だが、皆無でないのも、また事実だ。
「もう、しっかりしなさいよ!」
「わるぃ・・・」
「ほらほら、さっさと行って、さっさと助け出すんでしょ?だったらこんなところでボーっとしてても仕方ないじゃない」
「そうだね・・・行こうか」
三人一斉に、足を踏み出す。
屋敷は山肌を削って建てているようで、一応平面にはなっている。だが、その広さはほとんどなく・・・屋敷はほとんど森の中に埋もれているという感じだ。
隠れ家にはもってこいね・・・と、秋葉は慎重に辺りを見渡した。
他の二人はいまいちよく分かっていなかったようだが、結界にしろ陣にしろ、それを展開するには膨大な資材と労力が必要だ。だから術士は絶対に無駄を出さないよう最低限の広さにしか術をはらない。
だが、ここはどうだ?こんなちっぽけな屋敷、しかも人が寄りつかないような隠れ家のために、徒歩で30分以上もの広大な陣をはっている。
イかれた魔術師ならやるかもしれない。あいつらはたまにこういう意味不明な「無駄」を好んだりする事がある。それならば、まぁ気分は悪いがそれほど警戒する必要はない。
むしろ恐れるべきは・・・これが「最低限」だったときだ。
もしそうだとしたら、この屋敷に住んでいた者はとんでもない相手を敵にしていたということになる。そしてそれは、この場所にそんな敵が責めてくる重大な「理由」があったことを示しているのだ。
こんな場所に隠れ住み、強大な敵を迎え撃つ・・・いったいどんな「理由」があったのだろう?
・・・と、警戒している秋葉だったが、それは別にここに居るのであろう自分たちの敵に対しての物ではない。
強大な敵を相手にするための陣なのであれば、単純に力を奪うという効果だけではないのかもしれない。何か・・・下手をすれば致命的な罠が設定されている可能性も考えられる。
だが、そんな秋葉の不安にもまったく気づかず、梓と綾香は無警戒な歩調で屋敷へと足を進ませていた。
「お二人とも、もう少し警戒してください!」
「大丈夫、大丈夫。秋葉は心配のしすぎよ〜」
「そりゃあ、綾香さんは人間の純血種なんですから大丈夫でしょうけど・・・梓さん!あなたは違うんですよ!」
「う、うん。そりゃあ分かってるけどさぁ・・・なぁんか気になるんだよねぇ」
「まだ、思い出せないんですか?」
「う〜ん・・・この風景は間違いなく記憶に在るんだけど、どうしてあたしがこんな所に来たのか、覚えてないんだよ」
ポリポリと頭を掻きながら、必死に記憶のビデオを巻き戻ししてみるが・・・どうしても思い出せない。
「なに?その歳でもうボケが始まってるの?」
「ち、違うわい!」
「怪しいわねェ〜。梓って、栄養が脳に行かずに胸に行ってるみたいだしね」
浴衣を押し上げている梓の胸の部分に視線を向け、ニヤニヤといやらしい笑いを見せる綾香。
たしかに、浴衣という服装のせいであまり目立たないが、梓の胸は世間一般よりは間違いなく大きかった。
「な、な、なぁっ!」
「あはは。顔真っ赤にしちゃって!」
「そ、そんな事言ってる綾香だって!」
「外国育ちだからね〜♪」
「まったく関係ない!あんたも栄養が胸に行ってるんだよ!」
「そんなこと無い・・・」
「そんな話はどうでも良いんです!!!」
轟っ!・・・と、今までのお嬢様の姿勢もかなぐり捨てて、秋葉が吠えた。
「今はそんな話をしてる時ではないでしょう!」
「そうだね・・・胸なんて関係ないよ・・・」
「そうね・・・胸なんて関係ないわ、秋葉・・・」
「なんで目線が私の胸元に向かっていて、なんで声や仕草に哀れみが含まれているのか、今すぐ問いただしたい気分ですが・・・こんな場所なのでやめておいて上げます」
自分の自制心に、秋葉は自画自賛した。とはいっても、これがもし自分の兄だったのなら、どんな場所であろうと絶対に「再教育」しているだろうが・・・。
「梓さん。梓さんのソレは既視感と呼ばれるものなんだと思います」
「まぁ、そうかもね・・・」
「既視感にも様々なパターンという物がありますが、それが何にしてもあまり気にする必要はありませんよ。忘れている記憶。思い出せない過去の風景。これらは皆、思い出す必要がないことだから思い出せないだけのことです」
「そういう・・・もんなのか?」
「そういうものです」
秋葉はそう断言して見せたが、しかし梓は納得できていなかった。
忘れている記憶が、全て不必要な記憶だとは限らないのではないだろうか?
もしかしたら自分は・・・忘れてはいけないことを忘れてしまっているんではないだろうか?
「・・・やっぱり、あたし気になる。ちょっと辺りをまわってみるよ。もしかしたら思い出すかも知れない!」
「ちょ、ちょっと!」
「すぐ戻る。あんた達はここに居て!」
そういうと、梓は返事も待たずに走り出した。
もっと良く見れば、あるいは実際に屋敷の中に入ってみれば・・・そう思うと、ゆっくり歩いてはいられない。
身体の重さも忘れて、梓は屋敷の裏手の方へ消えていった。
「なんて不用心な・・・」
「思い立ったら猪突猛進、ねぇ。あれでよくあたしの事どうこう言えるわよ」
呆れながらも、梓の安全のためにも後を追おうと歩き出す二人。
しかし、それは途中で止められることとなった。
ガララ、と突然障子戸が開く。
「・・・どうやら、当たりみたいね」
「そのようです」
苦笑するように、嘲笑するように、その顔に微笑みを浮かべて綾香と秋葉は視線を向けた。
障子戸の奥から現れた男へと・・・。
そういえば・・・と、梓は屋敷の裏手にまわってきたところで在ることを思い出していた。
秋葉の言葉。
忘れている記憶というのは、その人にとって思い出す必要がない記憶なのだ、という言葉。
前に一度同じような言葉を聞いたことがあった。
あれはいつだったか・・・それほど前のことではない。
確か、耕一が家にいて、夕飯を食べているときだ。
『なぁ梓。おまえは鬼の血についてどこまで知ってるんだ?』
そう聞かれ、梓は観光パンフレットに書かれている程度の知識を述べた。
『それだけか?なんかこう・・・もっと識っている事は無いか・・・?』
いったい何が言いたいのだろう?
梓は耕一のいわんとしている事がなんなのか分からず、首を傾げた。
『そっか・・・忘れてるのか・・・』
その時の耕一の顔は・・・確かホっとしていたような感じがする。
だけど梓はそのことに気づかず、「忘れている」と言った耕一に対して文句を吐こうとした。
・・・それを、冷たい声が遮った。
『忘れるという事は、正しいことなんですよ。それは必要なことだから。忘れた記憶というのは覚えている必要がない記憶だから。覚えてちゃいけない記憶だから・・・。むしろ覚えている方が異常なんです』
いつも通り、一足先に食事を終えて、いつも通り、食後のお茶を飲んでいた楓が、そんなことを言った。
どういう意味なのか梓には分からなかったが、「もう話は終わり」とばかりにお茶をすする楓を問いつめることも出来ず・・・その場にいた千鶴と初音と同様にぽか〜んと困惑しているしかなかった。
ただ、耕一だけが楓の頭をポンポンッと優しく撫でていた・・・。
「むぅ・・・あの人の言葉で楓を思い出すなんて・・・二人は似ているのかな?」
見た目は・・・似ているかも知れない。
同様に凛とした表情で色白。日本人形のようだ。
だが、性格は随分違う。秋葉はかなりアクティブな方だ。楓のように静かで、目立たない態度というのは彼女には不可能だろう。
両者とも頑固であるという点での共通点はあるが、その頑固の表現の仕方が違う。
梓は、二人がお互いに意地の張り合いをしている光景を想像して、ほくそ笑んだ。
「・・・って、そんなこと考えてる場合じゃなかったわね」
そんな面白い事はまた後で考えるとして、今の問題は自分の記憶についてだ。
見回してみて思うことは、この建物が随分古いということだろう。
近代設備は一切無い。電気を使っているらしい形跡もないし、ガスも、水道すらも通っていない。
屋敷の裏手には、薪と思われる四割の木が山積みにされていて、その隣には大きな桶。中を見てみると、虫や土や塵や黴や、その他諸々で汚く汚れた水が張られていた。どうやら生活用水をためておく桶のようだが、随分ながくほったらかしにされていたようで、とてもじゃないが使える水ではない。
土壁をコンコンッと叩いてみると、ぼろぼろと崩れ落ちてきた。
だが、意外にも建物の芯はしっかりしているようで、柱を叩いたときは表面が少し崩れた程度だった。
「いつ頃の建物なんだろう?」
古く腕のいい職人によって建てられた日本家屋は、その環境しだいでは百年、二百年とその原型を保っている事がある。
しかし、この手の建物が全て遠い昔の物とは限らない。
なにせこの隆山はおよそ50年前、梓達の祖父の手によって鶴来屋が設立し、再開発の波を起こすまでは外から訪れる物も居ないほどに随分な田舎だったのだから。
「う〜ん・・・でも、どっちにしてもあたしがまだ生まれてない頃の話なんだよなぁ・・・」
ここに誰が・・・いつ頃から、そしていつまで・・・住んでいたのか・・・。
「・・・入ってみるかな?」
先ほどから気づいていたのだが、勝手口と思われる引き戸があった。
残してきた二人には、辺りをまわってみるだけだと言っていたのだが・・・どうしても気になってしまう。
「ちょっとだけ、ちょっとだけ・・・」
どうせ、「ちょっと」で済むわけがないとは分かっていながら、梓は引き戸に手をかけ・・・開いた。
こわごわと、中をのぞき込む。
「・・・台所・・・ね」
どうやら、予想通り勝手口だったようで、中にはテレビとかで見たことのある竃が並んでいた。
しかし、それにしても・・・暗い。
開いている扉から、そして所々開いた壁の穴から月明かりが漏れてくるだけで、それ以外の光源は一切無い。
「なぁんか・・・ゴキブリとかその手の虫がいっぱい居そう・・・」
見たくはない光景を想像して、梓は顔をしかめた。自分が今、敵が潜んでいるかも知れない場所にいるのだということはすでに念頭にはないようだ。
ちなみに、梓はこのとき知らなかったのだが、基本的に陣の中には野生の生き物は入ってこない。警戒心の強い彼らは異質な空間には足を踏み入れない。違う空間に入るという事がそのまま致命的な出来事につながってしまうことを知っているからだ。
梓も、この屋敷に蜘蛛の巣がついて無いことに気づいていたらその事実を推測することが出来ただろうが、残念なことに彼女にはそんな観察眼はなかった。
「おじゃましま〜す」
と、律儀に(ただし小声で)挨拶し、足を踏み入れる。
中に入って見た感想は・・・なかなか広いな、というものだった。
実際の面積的な広さは無い。計測して見ればおそらく柏木家の台所よりも狭いだろう。
だが、余分な物がいっさい無いので、その場所は実際よりも広く感じられたのだ。
(・・・って、ここはあんまり関係ないっか・・・)
いくら自分が料理好きだからといって、他人様の家の台所を覗くようなことはしないだろう。
梓はさらに奥へと進むことにした。
地面がむき出しの土間から、靴を脱がず・・・埃だらけなので・・・そのまま床へとあがる。
ギシ、ギシッと軋む音がしたが、どうやら腐ってはいないようで突然床が抜けるというハプニングはおこらなさそうだ。
(あぁ、床板といえば・・・)
あの時は随分悪いことをしてしまったな・・・。
怒りを制御できずに全力を解放して・・・おかげで床板を叩き折っちゃったんだっけ。
だって仕方がなかったんだ。
あの子があんまり頑固だったから。
不器用な手で刃物を握って・・・でも結局上手くいかなくて最後は爪で・・・。
私は言ってやったんだ・・・。
そんなことする必要ない。
そんなことをする必要はないんだ。
だって私たちは・・・・・
「・・・って、あれ?」
あたしは、今なにを考えた?
今、一瞬何か、違う風景が見えた・・・。
古いような、新しいような・・・夢のような風景。
それは間違いなく「あたし」の記憶・・・。
なのに、それから醒めた瞬間に、儚く消えてしまった。
「・・・本当に脳がやばいのかも・・・」
言ってる自分自身もぞっとするその結論に達しそうになり、梓は思いっきり頭をふった。それでどうなるわけでもないのだが、とりあえず嫌な不安を吹き飛ばす効果はあるだろう。
頭を冷静にして、もう一度よく思い出す。
それが「いつ」の事だったのか、それは思い出せない。
ただ、自分は間違いなくそこにいて、そして自分以外にもう一人・・・人の姿があった。
誰だ・・・いったい、誰だ?
人の姿・・・男、じゃない。きっと女だ。
女、それも若い女。
あれは・・・誰なんだろう?
――――さん
「あ、つっ・・・」
ズキンっ・・・頭に疼くような痛みが走る。
ぐらりと身体が沈み込みそうになって、梓はなんとか踏ん張った。
痛み自体は一瞬で消えたのだが、それだけ余計に違和感が残る。
鈍感な梓でもはっきりと分かるほどの違和感。それはつまり、その痛みが肉体的な物ではなく精神的な物からきたということを示していた。
「なんか、ヤな・・・感じ」
自分ってこんなにも脆かったのかな?と苦笑する。
と、同時に苛立ちも感じる。自分は、この程度のことで逃げ出すほど弱くはないのだ・・・と。
思い出せ。
さっき、一瞬だけど声が聞こえた。
女の、柔らかい声。
間違いなく、「あたし」が聞いたことのある声だ。
――――さん
あんたは、だれだ?
――――信じ――――られる――――
何?
――――同じ――――の人も――――
誰?
――――裏切り――――
何?
――――めて!
誰?
――――って!――――さん!!
あんたは・・・何なんだ?
誰なんだ?
――――さん!――――姉さん!!
「うあぁっ!!」
今度こそ、梓は自分の身体を支えきれずに膝を落とした。
軋んだ床から埃が舞い上がる。しかしそれに構うことも出来ず、梓は痛みを吐き出す頭を抱え、叫んだ。
否・・・叫ぶというほどの声はでなかった。
口から吐き出された声はほとんど音にならず、ただの空気の流れとしてさらに埃を舞い上がらせる結果となっただけだった。
「くぅ・・・チキショウ・・・」
なんでだ・・・なんで・・・邪魔するんだ!?
悪態を吐くその口調も弱々しい。
先ほど同様に痛みは一瞬の物、しかしこれまた同様に、違和感は酷い物だった。
自分とは違うところにいるもう一人の自分が全力で否定している。
思い出すな。とそう言っている。
(この場所には・・・そこまで思い出しちゃいけないような事があるのか?)
こんな場所に・・・誰が居たっていうんだ?
「あのぉ〜」
「・・・へ?」
まさか誰もいないだろうと思っていたのに、いきなり声をかけられ・・・梓は慌てて顔を上げた。
するとそこには・・・
「だいじょうぶですか?」
一人の少女が立っていた・・・。
「梓の心配よりも、自分たちの心配した方がいいみたいねぇ」
「問題ありません。たかが造魔ごとき」
屋敷の中から現れた男へと、視線を向ける。
中肉中背、適当に切りそろえられた髪の毛、安物のどこにでもあるようなTシャツ。
土気色した顔をしているが、それも許容範囲内だ。
見た限りでは、人間にしか思えない。
「人間の因子(ジーン)を植え付けられて居るんですから、人間の姿形をしていてもおかしくありません」
使い魔は多くの場合、動物の肉体を元に作られるが、その途上である程度の知力を持たせるために人間の魂が使われる。そして、その魂というのは人間の頃の形を記憶しているものなのだ。だから、容易く人間の姿を形作る事が出来る。「変化」に関してはむしろ、純血種の方が難しいのだ。
「それとも・・・あなたは相手が人間の姿だと戦えないタイプの人間なんですか?」
「冗談。あたしはエクストリームやってるのよ?人を殴り倒すのはお手の物よ!」
そう言い切るか言い切らないかの一瞬に、綾香の身体が沈んで・・・跳ねた。
重心を落とし力を溜め、一気に駆け出したのだ・・・とは秋葉もすぐに分かったのだが、それにしてもなんというスピードなのだろう。ただの人間だという事が疑わしく思えてくるほどの鋭い動きだった。
木々の回廊を抜けたすぐのところで立ち止まっていた彼女達と、その男までの距離はおよそ5メートル。その距離を綾香はほとんど一瞬でつめていた。
そしてその勢いのまま、彼女は小さくジャンプし、縁側の上にいる男の顔面へと掌底・・・ここまで勢いがついているならば拳よりも掌の方が有効だと判断したのだ・・・を打ち出した。
カウンターをくらえば自分の方が一撃で倒されるかも知れない状況だったが、男の動きから綾香はそれは出来ないだろうと判断していた。
そして、その予想は当たっていた。
突き出された綾香の掌底が男の鼻っ柱を打ち付ける。
ガゴッ、という鈍い音と共に、綾香の掌になんどやっても慣れない「嫌な」感覚が伝わってきた。
・・・後、何発か当てたら終わる。
人間相手なら、この一撃だけで勝負はつくだろうが、さすがに魔の属性を持つ者相手にはこれだけでは足りるまい。
綾香は、次の一撃をどうするか思考しはじめた。
・・・が、とっさに危険を感じて、着地と同時に後ろへ跳んだ。
「オマエ・・・ダレダ」
鼻をへし折られているためにややくぐもった声だったが・・・男は平然とした様子でそう言った。
全力であったか、と問われると答えかねるが、少なくとも手加減した覚えはない。
自分の打ち出した掌底が間違いなくクリーンヒットしていた事は、はっきりと実感している。
だが、男はまるで何事もなかったように立っている。
綾香は・・・苦笑した。
「堅いわねぇ」
「人間の姿をしていても、一応は「魔」ですからね。それに、どうやら痛覚は死んでいるようです」
「うわぁ。面倒くさいわねぇ」
そういいながら、綾香は懐に手をつっこんだ。
「でも、一応動物としての機能は保ってるのよね?」
「まぁ・・・そうでしょうね」
「なら、これは有効よねぇ」
「・・・それは・・・?」
綾香が懐から取り出したのは、10センチほどの一本の棒だった。
棒と言っても、ちゃんとしたグリップがついていて・・・さらに、綾香が一振りすると30センチほどまで延びた。
「警棒ですか?」
たしかに、見た目はそんな感じだった。持ち運びを楽にするために三段に収納できるようになっているその棒は、一般に特殊警棒などとよばれている物と似ている。しかし、綾香のもっているそれは、ただの警棒などではなかった。
「これはね、こういうのよ」
そういって、綾香はグリップについているボタンを押した。すると・・・バチバチッという音と共に棒の先端部分に電気の青い光が流れた。
「ス、スタンロッドですか・・・」
「そう!最大電圧100万ボルト!熊もイチコロの来栖川特製超強力スタンロッドよ!!」
じゃじゃ〜んと、まるでドラえもんの道具の登場シーンのように大げさに空へかざす綾香。
その仕草から、彼女がそれを一度も使ったことが無く、以前からどうしても使いたいと思っていたことを秋葉は直感していた。
たしかに・・・それはそうだろう。綾香ならばそんな武器に頼る機会も滅多にないだろうし、だいいち100万ボルトでは人間相手には強すぎる。
しかし・・・それにしても・・・
「浴衣にそれはちょっと・・・」
浴衣姿の少女がスタンロッドを構えている姿というのは・・・まるで悪夢のような突拍子のなさだった。
秋葉が顔をひきつらせるのも、よく分かる。
「気にしない!気にするから気になるのよ。気にしなければ気にならない!」
「そういう問題ではないような気もしますが・・・」
「そういう問題なのよ」
「オマエタチ・・・テキカ?」
「あんた次第よ」
殴っておいて、いまさらそれはないだろう・・・と思うものの、ツッコンでもどうせ気にしないのだろうから、秋葉は何も言わないことにした。
「あんたがさらった人・・・じゃないか?まぁそのさらった奴を返しなさい。そいつの子供から救出願いが出されてるのよ」
「ダメダ」
「即答ね。どうして?」
「クウカラダ」
拙く、くぐもったその言葉は一瞬、何を言っているのか綾香には伝わらなかった。
だが、秋葉にとっては予想通りの答えだったのですぐに納得した。
少女から相手が使い魔で、しかも主人からの連結(リンク)が切られているということを聞いた時点で、分かっていたことだ。
通常、使い魔は単独では生きられない。この点は、人間も他からの栄養をとらなければ生きられないのと同じといえる。
ただ、人間のように何からでも必要な栄養をとれるわけではなく、どうしても自分を造り上げた術士の魔力でなければならないのだ。これは連結(リンク)と呼ばれる魔力の共有であり、同時に契約とも呼ばれ、自我を持つ使い魔達を束縛する鎖となる。
だが・・・この使い魔は今、その鎖が外れた状態にある。
それはつまり二つの状態を意味する。一つはその使い魔が自分の主からの魔力提供を受けることが出来ず、栄養失調状態にあること。二つ目は、栄養を得るために必ずしも主の魔力でなければならないわけでは無いこと。
この二つの状態から出される使い魔の行動は・・・「手近な魔力保有者を喰う事」だ。
「話し合いでの解決は不可能です。不本意ですが・・・ここまで来てしまったんですから仕方ありませんね」
ため息が出る。こうなることはここに来る前から分かっていたことだ。
なぜ、私はここまで着いてきてしまったのだろう?
こんな無意味なお遊びに付き合う自分ではなかったはずだ。綾香は不思議に思った。
何故だか、わからない。
でも・・・。
(不本意です。不本意ですが・・・仕方ありません・・・)
なぜなら、猪突猛進な二人を放っておく訳にも行かないから・・・。
だから、秋葉は一歩、前へ出た。
髪の毛を一気に朱色に染める。陣の効果で全力を発揮することは出来ないが、それは相手も同じだ。
「綾香さん。下がっていてください」
いくら力が弱まっているからと言っても、魔の一撃は生身の人間にとっては致命的だ。綾香のような近接戦闘は明らかに不利だ。
秋葉にしてはめずらしい、気遣いだった・・・が、当の綾香はそれをあっさり無視した。
「嫌よ。あいつの相手はあたしがするわ」
「何を戯たことを言ってるんですか!あなたでは・・・」
「負けないわよ。あんな雑魚くらい、瞬殺よ、瞬殺!」
「瞬殺される、の間違いでしょう。あなたのような非力な人間にはあのような愚鈍だけど耐久力の高いタイプとは相性が悪すぎます」
「非力って・・・秋葉に言われたくないわね」
「私は確かに力はありませんが、それを補う能力があります」
「・・・オイ、オマエタチ・・・」
しびれを切らした、というわけではないだろうが二人の言い合いに付き合ってられないと判断したのだろう。その造魔は割り込むように声をかけてきたのだが・・・。
「取り込み中です。ちょっと黙っててください」
「そうよ、あんたはそこで待ってなさい!」
それにさらに割り込みをかけて、二人はあっさりと切り捨てた。
そして、何事もなかったように言い合いを再開する。
「いっとくけどね、あたしをそこらへんの一般人と一緒にしない方がいいわよ」
「確かに。一般人よりもやや頭が弱いようですね」
「そういう意味じゃない!」
「オイ・・・」
「だからあなたは黙ってなさいと言ってるでしょう!」
「うるさいのよ、あんた!後でちゃんと相手してあげるからそこらへんでウォーミングアップでもしてなさい!」
文の上で順に表現しているが、実際の所この二人の言葉はほとんど同時に発せられている。
このあたりの息はぴったりな二人なのだが、残念なことに当人達はそのことに気づいていない。
「どうやら、きっちりと決着をつけないと駄目のようね・・・」
「驚きました。あなたにしてはまともな意見じゃないですか。まだそのちっぽけな脳味噌にも成長の余地はあるようですね」
「女だからって手加減はしないわよ・・・」
「安心してください。私はちゃんと死なない程度に手加減して差し上げますから」
日々の特訓・・・兄への説教・・・によって洗練された秋葉のボキャブラリーは綾香のそれを凌駕する。
どうやら口での勝負は綾香の圧倒的不利のようだ。
「覚悟はいい?ペチャパイ秋葉ちゃん・・・」
「胸は関係在りません!!」
・・・そういえば、秋葉には弱点があった。
口での勝負・・・お互いの精神に与えるダメージは互角のようだ。
となれば、お互い口での言い合いは諦め、速やかに次の段階へと移行する。
「その綺麗な顔面、へこませて上げるわ・・・」
不敵な笑みを浮かべ、さらりと残酷なことを言い放つ綾香。
「そのバカみたいな胸、へこませて差し上げます・・・」
何をする気だ、秋葉・・・。
お互いの殺気が交錯する。
冗談じみた二人だが、実力は本物だ。殺り合えば両者ともただでは済まない・・・。
・・・だが、そんな心配はすぐに杞憂に終わる。
「・・・ヨク、ワカラナイガ・・・ウセロ。ウセナケレバ、オマエタチモクウ」
「喰う?」
「喰うですって?」
一刻も早く空腹を満たしたいというその造魔の気持ちは分からないでもなかったが・・・それならば無視して屋敷の中に戻っていれば良かったのだ。おそらく、彼女らはそのことにも気づかずに二人で始めていただろうから。
しかし、何か理由があったわけでもないだろうが、造魔は二人に声をかけた。
そして、その言葉は・・・バトルモードのスイッチが入っている二人の神経に触れていた。
「あたし達を・・・」
「喰う、というのですか?」
凄惨な微笑み・・・としか表現のしようのない微笑。
その瞬間には、すでに彼女たちの照準は造魔へと移っていた。
「ジョウトウじゃない。まずはあんたからオシオキして上げるわ!」
ガッ、と下駄の歯が湿った地面を噛みしめる。バランスを取りにくいのが難点だが、最初の踏み込みの際の食いつきは普通のスニーカーよりもいいのかも知れない。綾香は地面を滑るようにして駆け出した。
先ほどのように跳ぶ事はしない。一撃打倒が難しい相手であるのなら、数を当てるのみだ。
ほとんど瞬間的に造魔の目の前に移動した綾香は、まず初弾を相手の顔面へと向けた。
先ほどの一撃は肉体的に大きなダメージを与えることは出来なかったが、それでも精神的に圧迫感を与えていたらしい。今度は造魔も反応した。
予想よりもなかなか素早い反応で、自分の顔をガードする。
・・・だが、ガードすること自体は、綾香の予想通りではあったのだ。
彼女の最初のこの一撃は単なるフェイントだった。振り抜こうとしていた腕をすぐさま引き戻し、ガードが顔面に上がることで無防備にさらけ出された鳩尾を打ち抜く。
重い感触が綾香の拳に伝わる。石のような硬さではなく、衝撃を吸収する・・・太いゴムタイヤのような重さ。内蔵(なかみ)が詰まってないんじゃないかと思わせるその不自然な感触に一瞬背中がゾワッときたが、だからといって動きを止めてしまう綾香ではない。
拳を戻すと、すぐさま横へ跳ぶ。横へ、といっても自分の横、という意味ではない。造魔の横に回り込むように跳ぶ、という意味だ。
そしてそこから、回し蹴りの要領で相手の膝裏へと下駄の歯を捻りこむ。
この一撃は効果的だった。バケモノとはいえやはり人間の姿をしている以上、骨格構造まで変えることは出来なかったのだろう。造魔の膝が否応なくガクンと沈む。
そのまま綾香は止まらない。膝裏に下駄を半場ひっかけたままの状態で、今度は後ろへ・・・造魔の後ろへ跳ぶ。
綾香と男の姿をした造魔の身長は当然の事ながら後者の方が高い。だがひざを折られて身体を沈ませた今の状況では、彼女にとってちょうどいい高さになっていた。
虎の子であるスタンロッドを構え、目の前にある後頭部へとその先端をたたき込む。
バチィバチチィィィィッ!!!
「がぐあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
獣の咆吼が夜の静寂に響きわたる。陣の効果で命の気配の少ない山に響く突然のその生命の声に、辺りの草木が・・・さらには古い屋敷までが、驚いてその身体を振るわせた。
「ぐげがぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
聞くに耐えない耳障りな咆吼。だが、叫べるだけでも驚異的だった。
脳から脊髄へと続く辺り・・・延髄の辺りに直接高電圧をたたき付けたのだから、人間ならば声を出す暇もなく死に至るだろう。綾香の一撃はその売り文句同様、本当に熊もイチコロな荒技なのだ。
それだけに、叫びを上げつつも今だ動き続ける相手に、綾香は多少の焦りを覚えていた。
・・・その焦りが、一瞬の反応の遅れを産む。
「綾香さんっ!」
沈んでいた造魔の身体がいきなり持ち上がる。
そして、闇雲な動きで綾香の居る自分の後方へと拳を振るった。
「なぁっ!?」
まさか考えても居なかったその行動。それでも幾度と無く死線をくぐり抜けてきた綾香の身体はとっさに動いていた。
身体を後ろに倒すようにして、拳の攻撃判定線上から逃げる。
だが、身体は落とせても、手はそれについてこなかった。
手首に強い衝撃が走る。
・・・といっても、手を実際に殴られたわけではない。ただ、持っていたスタンロッドを弾かれたのだ。
「・・・驚いたわ・・・ホントに」
転がるようにして間合いを取った綾香は思わず呟いていた。
手からすり抜けて地面に転がったスタンロッドを見ると、特殊な金属で加工されたスタンロッドがぐにゃりと曲がっている。おそらく、再起不能だろう。
「あんた、すごいわね・・・」
「感心してどうするんですか、感心して!」
秋葉の言うとおりなのだが、それにしてもやはりすごい事はすごい。
「もうちょっと出力を上げてもらわないと駄目ね」
「あなたという人は・・・もういいです。下がっていてください。後は私が始末します」
呆れるように言い、朱の髪をゆらゆらと展開させていく秋葉。
スタンロッドを無くした綾香は、素直にその指示に従うことにした。
「さぁ、覚悟してください?私は無神論者なので、お祈りの時間を与えてあげる気にはなりません」
あなたは―――――今すぐ死になさい。
冷徹な死の宣告。
秋葉の髪がブワッと広がり、そして獲物に食らいつこうとするピラニアのように一斉に造魔へと殺到した。
彼女の「略奪」は通常の攻撃・・・打、斬、突のどれとも違う。
触れた物から全てを奪い尽くす彼女の能力の前には肉体的な強さはあまり関係がない。
綾香が苦戦した相手でも、秋葉にとっては敵ではない。朱色の髪が造魔に絡み付き、次の瞬間には勝負は決している・・・はずだった。
「がぁっ!!」
どこかの機関に影響があったのか、喉がつぶれたような鈍い奇声と共に、造魔は髪の届かない所まで跳躍した。
「・・・あなたの中途半端な攻撃のおかげで、随分臆病になってしまいましたね」
「あはは。みたいね♪」
ジト目の秋葉に、冷や汗する綾香。
手負いの獣は、必要以上に臆病になる。綾香が打撃の通用しない敵を苦手とするように、秋葉もまた素早く動き回る敵を苦手としていた。
「・・・おバカ」
「うぐぅ・・・」
反論できない綾香だった・・・。
「あの、大丈夫ですか?」
そう問うて来たのは少女だった。
歳の頃は・・・梓よりも一つ二つ下か。細くてサラッとした髪を三つ編みにしている。
一目で安物と分かるペラッペラの生地を使った臙脂色の浴衣姿からみて、お祭りに来ていたのだろう。
薄暗い中にボウと浮き上がるように見える白い肌は、なんとなくお化けじみていたが・・・お化けにしては少々自信なさげ過ぎる。こんな人のいい顔をしたお化けが居てたまるものか。
「あの・・・そんなところで倒れたら、浴衣汚れちゃいますよ?」
「え?・・・あ、あぁっ!!」
例の違和感のせいでそこまで思考がまわっていなかった。慌てて立ち上がり、自分の膝の辺りを見ると・・・案の定埃に汚れていた。
「お気に入りの浴衣がぁ・・・」
「大丈夫ですよ。その程度なら、ちゃんとはらえば元通りになります」
そういって、少女はパンパンッと浴衣の汚れをはらってくれた。
「あ、ありがと・・・」
「いえいえ。どういたしまして」
「・・・えっと・・・で?あんた誰?」
「わっ、それは私の台詞ですよ。どうしてこんな所に人が居るんですか?」
「それは・・・人?・・・助けのためだよ。女の子がさ、自分の母親をさらわれたっていうから、助けに来たの」
「あぁ、そういう事でしたか」
「・・・にしても、二人も捕まってるとは思わなかったな・・・」
「二人?いえいえ、違いますよ。その子の母親は私です」
「は・・・?」
何気ない少女の一言に、梓は固まった。
先ほどから「少女」と表現しているように、見た目は完璧に梓よりも年下なのだ。
そんな彼女が、六つか七つの女の子の「母親」だという。
「どう言うこと?」
「・・・姉様が選んだ人なのだから、特別な方だと思っていたけど・・・もしかして、その手の知識は持ってないんですか?」
「その手の知識って・・・」
一体何のことを・・・と思案する梓の脳裏にひらめきが走った。
「あぁ、なるほど。そういうことか」
「はい。ご想像の通り、私もその子同様に人間じゃありません。ですから見た目と年齢は比例しないんですよ」
柔和な表情でこともなげに告げる少女。しかし、本人は人間じゃないと言っているが、その仕草はあまりにも人間くさかった。
「あぁ、それはそうでしょうね。だって、私は元人間ですから」
「・・・へ?」
「私は元々普通の人間だったんですよ」
「ど、どう言うことよ。元人間で今化け物?」
「はい。ちょっとした事情があって・・・。まぁそれは追々話すとして、とりあえず・・・ここから出ません?」
確かに、こんな埃っぽいところで長話するのは梓も遠慮したかった。
それにここに捕まっているのが彼女だけなら、これ以上ここにいる必要もない。
「よし。じゃあ外へ出ようか」
「はい。・・・でも、ホントに助かりました。もうちょっとで私、食べられちゃう所でしたから」
「た、食べるぅ!?」
造魔が彼女を食べるワケは前述されているが、しかし当然の事ながらそれを梓が知っているはずもない。
「さっき、いきなりあいつが外へ出ていかなかったら、今頃私は完璧に食べられちゃってましたよ」
「外へ?あんたを浚った奴が?」
「はい」
「そうか・・・」
そういえばあの二人を外に待たせたままだったが、大丈夫だろうか?
梓は今まですっかり忘れていた綾香、秋葉の両名を思い出して少し心配になった。といっても別に二人がその敵に殺されてしまうんではないかとかそういった不安ではない。
(あの二人、手加減とかしなさそうだもんなぁ・・・)
この屋敷を壊さなければ良いんだけど・・・と、それが心配なのだ。
「早く戻った方がいいかも・・・」
「・・・どうかしましたか?」
「いや、なんでも・・・」
『がぐあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!』
「・・・今の・・・何でしょうか?」
「さ、さぁ・・・わかんない」
わからないけど、やっぱり早く戻った方がいいのは確実だろう。
梓は少しだけ足を早めることにした。
屋敷の外を目指すのは簡単だった。古い日本家屋は壁での仕切が少なく、部屋と部屋がふすまでしか仕切られていない場合が多い。
だから、入ってきた方向(裏口)と反対の方向に進めばそのまま表にたどり着くはずだ。
「あの。あなたは・・・えっと・・・」
「ん?あぁ、あたしは梓。柏木梓」
「あ、はい。私はカナコです。・・・梓さんは地元の人なんですか?」
「そうよ。あなたは余所から来たようね。観光?」
化け物であるからといって観光しないとは言い切れない。自分たちだって同じような物なのだから・・・と、考えて梓はそう聞いた。
しかしカナコは首を振った。
「新しい住処を探して旅をしているんです。姉様は今だ昔の力を完全に取り戻していないし、私はたかが造魔に捕まってしまうほどの弱い力しかもっていません。ですから早く安全に暮らせる新しい住処を見つけないと・・・」
「ふぅん・・・その途中でここに立ち寄ったってわけか。でも、いっとくけどこの町はだけだからね。これ以上化け物が増えたら困るから」
小憎たらしい居候の顔を思い出す梓。しかし、彼女も運がない。せっかく想い人がこの町に来ているって言うのに、つい一昨日、「夏コミに行って来ます」という置き手紙を残して東京の方へ行ってしまったのだ。
「ご心配なく。この町にはお祭りを見るために滞在していただけで、今晩には出るつもりです」
「今晩?いや、なにもそんなに急がなくても・・・」
自分が追い出すような酷いことを言ってしまったかと、梓は少し焦った。
「いえ、もともとそのつもりだったんです。この町には古くから鬼が居るんでしょう?一つの領土に二つの「血」があれば、必ず争いが起こります。先ほども言ったとおり私たちにはまだ戦う力がありませんから、火種が起きる前に出るつもりだったんです」
「そっか・・・」
自分たちはそんなに好戦的ではない・・・と否定しようと思った梓だったが、姉の顔を思い出してそれを断念した。なにせ勘違いで自分の家族を殺しかけるような人なのだから・・・。
「行く宛はあるの?」
「いえ。・・・でも時間はたっぷりありますから」
私たちの血は、長寿なんですよ。と付け足すカナコ。化け物の中には不老とか長寿とかは結構当たり前のようにいるらしいが、柏木の鬼の血にはそれらの要素は含まれていないらしい。寿命にしろ成長速度にしろ、普通の人間とあまり変わらない。
・・・いや、すこし変わるか。成長速度は普通よりもホンの少し遅いように思う。
姉のアレは単なる若作りだが(本人の前で言ったら殺されるだろう)、下の二人の妹たちの幼さは天然の物だ。あの二人はどう見ても高校生には見えない。
(そのくせ、あたしは普通だよなぁ・・・)
まだまだ若さを惜しむ歳ではないが、時々妹たちの幼さが羨ましくなることがある。二人がアイツに頭を撫でられている時なんかは、特にその欲求が強い。
素直に甘えられたら・・・とは思うのだが、やはり今の梓にはそれが出来なかった。
・・・だがそれは・・・すでに幼くないから、だけではない・・・。
――――さん
「・・・ん?」
声が聞こえた気がして、その方向を向く。
しかしその方向には、他となんら変わらない、ごく普通の襖があるだけだった。
「梓さん?」
「いや・・・なんだろ?」
梓は首を傾げた。
何となく、声が聞こえた気がした。
それは先ほどの物と同じ・・・
「この向こうが、何か気になるんですか?」
「う、ん・・・」
襖。ごく普通の襖。
だけど・・・覚えている・・・?
「何だろ?何か・・・在ったような気がする」
「以前ここに来たことが在るんですか・・・」
「どうなんだろ?」
「へ?でも今、この向こうに何か在るって・・・」
カナコは不思議そうな顔をしたが、一方の梓はというとむしろ憮然とした顔だった。
知ってるのに思い出せないという状況。しかも思いだそうとすると嫌な気持ちになる。
そんな自分に、最初は困惑していたものの徐々に慣れ始めてくれば今度は苛立ちが強くなる。
なんというか・・・分かりやすく言ってしまえば「いい加減にしやがれ」な気分なのだ。
「開けてみるわ」
「えっ!開けちゃうんですかっ!?」
「・・・なんであんたがそんなに驚くんだ?」
「・・・いえ、なんとなく♪」
幼げな表情のカナコでなかったら、梓は少女の顔面に飛んでいこうとする自分の拳を押さえられなかったかも知れない。
「冗談は時と場合を見て、しましょう」
「はい。ごめんなさい」
とにかく今問題なのはこの襖の向こうの事だ。
直感的に、自分のこの不思議な感覚の答えがこの向こうにあると、梓は感じ取っていた。
ゆっくりと、慎重に襖の取っ手へと手を伸ばす。
――――開けるな――――
声が聞こえる。これは自分の声だ。
(いったい、何に怯えてるんだ、オマエは!!)
開けちゃいけない。何度も何度も頭の中に叫びが広がる。
それでもあたしは・・・知りたいんだ!!
ガララ・・・と、音と埃をたてて、襖が横にスライドする。そして、奥の部屋が梓の視界に入った・・・。
六畳ほどの小さいとも大きいとも言えない畳の部屋。伽藍としていて、家具も・・・ただ、一つをのぞいて、一切存在しない。
「わぁ!綺麗な着物ですね!」
カナコが賛辞の声を上げるのもわかる。なにせその月の光もほとんど届かないような暗く味気のない部屋の中で、ただ「それ」のみが光り輝くような美しさだったのだから。
着物・・・撫子色(薄く紫がかった桃色)の生地に白い繊細で可愛らしい小さな華の柄。それはむしろ異質とも言えるほどの存在感だった。
「これ、この家の人のなんでしょうね?・・・でも、こんな素晴らしい品を置きっぱなしになんて・・・」
むぅ、と唸るカナコの言葉を梓はほとんど聞いていなかった。
すでにその時には、彼女に他人の言葉を聞いていられるだけの余裕はなかったのだ。
――――さん!――――
あぁ、そうか・・・。
――――見て、姉さん!!――――
そう・・・か・・・。
――――見て、姉さん!!あの人が買ってくれたの。綺麗でしょう?美しいでしょう?私たちの星(くに)にはこんな素晴らしい着衣なんて無かったわ!――――
そりゃそうだよ。だって、そんな服じゃ戦いにくいじゃないか・・・。
――――これは戦うための服じゃないのよ。人間は、戦うためだけに生きてるんじゃないわ!――――
やつらはただの獲物だからだよ。
――――違う!違うのよ、姉さん!!彼らは戦わずに生きていける。そしてそれは私たちも!私たちはみんな分かり合えるわ。だって、私はこれを綺麗だと思えるもの!姉さんだって、綺麗だと思うでしょう?――――
まぁ・・・ね。
――――そうよ。みんなこれを綺麗だと感じられる。綺麗だと思う気持ちが同じなら、私たちは共存できるわ!私たちは、一緒に生きていける!!――――
・・・無理だよ・・・
そう。無理だったんだよ・・・。
まるで夢のような明確で、しかし不確かなその映像を眺めながら、梓は一人呟いた。
美しい着物を胸の前にかざしながら、精一杯に・・・普段からは考えられないほど激しい口調で語る少女。
最愛の・・・妹。
大切な・・・家族。
彼女の幸せを願う気持ちは、この大宇宙ですら満ち足りない程に激しく、強い。
だけど・・・それは、無理だったんだ・・・。
――――姉さん――――
分かって欲しい。もし男連中に捕まれば、裏切り者のオマエがどうなるか・・・。
――――そう――――
だから、せめてそうなるまえに・・・このあたしが・・・
――――リズエル姉さんも同じ意見?――――
ああ。
――――リネット・・・あの子は?――――
知らない。教えていない。
――――そう――――
・・・・・
――――・・・・・――――
あたしは・・・間違ったことをしているのかな・・・?
――――姉さん・・・あなたは、間違――――
バタンッ!!
「わぁっ!!いきなり襖を閉めないでください。顔が挟まれる所でした・・・って、梓さん?」
突然、開いたときの数倍のスピードでしまった襖に驚き、カナコが悲鳴を上げた。
しかし、その危機を招いた張本人に文句を言おうとして・・・梓の顔が真っ青なのに気づいた。
「い、嫌だ・・・思い出したくない・・・!」
「梓さん!?」
苦しみもだえる梓に、カナコが心配そうな声をかける。が、梓はそれどころではなかった。
思い出していく。どんどん、どんどん思い出していく。
過去の事。遠い昔のこと。忘れていたこと。
それは・・・
『忘れるという事は、正しいことなんですよ。それは必要なことだから。忘れた記憶というのは覚えている必要がない記憶だから。覚えてちゃいけない記憶だから・・・』
思い出してはいけなかったこと・・・。
あたしは・・・間違いを・・・犯した・・・!
「くそぉ!もういい!思い出したくないんだよ!!」
「梓さんっ!!」
「思い出すなっていってんでしょうが!!このぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
頭の奥からあふれ出てくる記憶の渦を消し去るように、梓はそのまま・・・頭を近くの柱に思いっきりたたき付けた。
ガゴンッという、シャレにならない音と共に屋敷全体がビリビリとしびれるように震えた。・・・それほどに、梓の頭突きは手加減抜きの強烈な一撃だったのだ。
「だ、大丈夫ですか!!」
「・・・あぁ・・・大・・丈夫」
額に焼けるような痛さを感じる。だが、その涙が出るほどのとんでもない痛みのおかげで、さきほどまであふれていた記憶が・・・今は再び脳の奥深くの沈んでいってくれた。
思い出したくない。思い出しちゃいけない。
あの過去は・・・駄目なんだ・・・。
「梓さん・・・血、出てますよ」
言われて、気がついた。額から顔になにか液体が一筋流れている。
「・・・拭かなきゃ・・・浴衣が、汚れちゃう・・・」
「私が拭いて上げます」
そういって、カナコは袖に手を突っ込んでそこからハンカチを取り出し、それを梓の額にあてた。
「いたっ!」
「まぁ、頑丈ですね。あれだけ派手にぶつけたのに、傷はぜんぜん小さいですよ」
「この場合、頑丈さを誉められるのは・・・喜んで良いのかな?」
「良いと思いますよ?」
「・・・そっか・・・」
「・・・元気ないですね・・・」
「うん・・・」
過去を思い出すことはなかった。だけど・・・そこからあからさまに逃げた自分は、今もここにいる。
自分は・・・逃げたんだ。
嫌なことから。怖いことから逃げ出したんだ。
「あたし・・・弱いな・・・」
「・・・そうですね。梓さんは弱いと思います」
「・・・・・」
「でも、勘違いしないでください。耐えられない痛みに、心を壊してでも向き合うことが強さなんかじゃありません。いつかきっとそれを乗り越えられる日が来ると信じられる事こそが、本当の強さなんだと思います」
「あ・・・」
抱きしめられた。
柔らかくて、暖かい・・・。
浴衣越しに感じられるカナコの温もりや、鼓動の音は・・・まるで遠い昔に亡くしてしまった母親のそれのようで、梓はなんとなく安らいだ気持ちになった。
「思い出したくないんだ。・・・向き合いたく、ないんだ」
「ハイ」
今はまだ、蓋をしておこう。
見たくないその思い出が、あふれてこないように。
そうしないと、大切な何かが・・・壊れてしまうから。
「大丈夫ですよ。いつかきっと・・・ちゃんとその過去に立ち向かえる、あなたになれますよ」
「う、ん・・・うん」
いつかはきっと・・・立ち向かうから。
今は・・・忘れたままで居させて、欲しい・・・。
「もぉぉぉぉぉぉっ!!じっとしていなさい、あなた!!」
「いや、殺そうとしている相手にじっとしていろって言われて、従うわけないでしょう・・・」
吠える秋葉に苦笑する綾香。そして、ひたすら逃げまどう造魔。
この三者の関係は先ほどからずっと変わらないままだった。
自分の髪を全面に広げて敵を補足しようとする秋葉だったが、相手の反応が予想以上に早いためになかなか上手く行かないようだ。
「もうっ!こんな陣さえ無ければもっと簡単に倒せるのに!!」
陣の効果のせいで、一度に動かせる髪の量や、のばせる距離が本来の半分ほどしかない。
そのため、木々や屋敷を盾にしながら逃げ回る造魔を効果的に追い込むことが出来ないのだ。
「・・・にしても、なんでアイツ逃げないのかしら?」
「逃げる場所なんてありませんよ。この陣から出れば、あの子供の姿をした化け物に殺されてしまいますからね」
自分たちに救出を依頼してきた少女は純血種だ。たとえまだまだ若いとはいえ造魔ごときに負けるほどではない。
「それに、この屋敷から離れるワケにもいかないんですよ」
「何で?」
「この屋敷の中に、自分の餌があるからです。下手に屋敷から離れて、私たちがその餌を連れ帰ってしまったら・・・こいつは危険を冒してでも陣の外に出るか、この場所で餓死するしかありませんからね」
「なるほど・・・ただダラダラと逃げ回ってるだけってワケじゃないのね」
「ええ・・・」
そう。手負いの獣は用心深くなる。とはいっても、この獣はけして草食獣などではない。一撃打倒の牙をもった肉食獣なのだ。
用心深く逃げ回るのではない。用心深く・・・反撃のチャンスを狙っているのだ。
「なら、罠をかけてみない?」
「・・・考えていることはだいたい分かります。わざと隙をつくって、そこに敵を飛び込ませようというんでしょう?ですが・・・今の私の能力では加速のついたあいつの質量を止めることは出来ませんよ?」
敵が一撃に賭けるとしたら、それは間違いなく自分のスピードと、そして何よりそのウェイトを使ってくるだろう。はっきり言ってしまえば、「体当たり」だ。
しかし、秋葉の能力では瞬間的にスピードにのって増した質量を奪い去ることは難しい。最短距離で直進してくる造魔を止めることは・・・全力の状態ならともかく、陣の効果で弱まっている今では・・・まず不可能だ。どんなに上手くいっても、相打ちがやっと・・・。
「でも、飛び込んでくるあいつを一瞬でも止められたら・・・それで勝負はつくでしょう?」
「それはそうですけど・・・」
「あたしが、止めるわ」
「ばっ!自殺行為です!!」
腕の一振りですら生身の人間には致命的なのだ。もしそんな強烈な一撃を食らったら・・・綾香の細い身体などバラバラにちぎれ飛ぶだろう。
「大丈夫よ」
「大丈夫なわけがありません!」
「大丈夫なんだって。あの奥の手をだせば・・・それぐらい可能よ」
「そう・・・黙ってみていて」
そう、前置きして綾香はダランと両手を下ろした。直立ではなく・・・ただの自然体。
だれもが普段から、意識せずにとっている姿勢。
だが、そんなどこかだらけたような姿勢でありながら、秋葉は何も言うことが出来なかった。
彼女が何をやろうとしているのか、想像がついたから・・・。
「・・・ぅ・・・」
小さく、ほんの小さく息を吐く。
そして、そのまま静かに眠るように瞳を閉じる。
普段は外部へと向けられている意識を自分の中に反転させる。
体の中を、心の中を感じ取る。
「自分」を閉じる。
それは・・・つまり、「無」・・・。
そのまま、綾香は深く深く閉じていく。
時間は、一分か・・・あるいは数秒だったのか・・・閉じた時間は有限でありながら無限のようにも感じられるほど続いた。
そして・・・ふいに、綾香が瞳を開いた。
「発ッ!!」
爆発を感じさせる気合いの声。それと同時に、すぐ近くにいた秋葉は身体に大きな波のような衝撃を感じた。
「お・・・驚きました。『錬気”発”』ですか・・・」
「あぁ。これって結構色々呼び名があるみたいね。前に会った女の子は『神気発勝』なんて呼んでたし、あたしはごく簡単に『開眼』って呼んでる」
「気の眼を開く・・・ですか。なるほど、ただのスポーツ格闘家とはわけが違うようですね」
さすがの秋葉も、賛辞せずにはいられない。
綾香の行ったことはごく簡単に説明すれば「潜在能力を出す」事だ。
人間にしろ、何にしろ、万物にはそれぞれ「気」という物がながれている。それはいわゆる生命エネルギーのようなもので、それがあるからこそ物質は存在出来るのだといわれている。ちなみに、「魔力」なども概念の捉え方が違うだけで基本的には同じ物だ。
だが、その気の流れている「気脈」は人間の場合、日常生活ではほとんど閉じた状態にある。それは大地や大気から取り入れられる「気」が人間の処理できる量よりも遥かに多すぎるためで、もし全てが開いた状態だったらエネルギー過多でオーバーヒート・・・つまりは死んでしまうのだ。
綾香がやったことはその閉じた気脈を開くことだった。もちろん、無計画に全部を開くのではなく、上手く循環、放出されるように必要なところだけを開いたのだが。
しかし、それでも充分だった。さきほど秋葉が感じた衝撃は、綾香の「気」の感触だった。陣が布かれているいるために気配という物を感じ取れない状態で、綾香の「気」は物理的に感じられるほど強力なものとなっている。それは普通の人間には絶対にあり得ない強大な力を得たことを意味しているのだ。
「ソレを見たのは久しぶりです・・・」
「でしょうね。今時これができるまで鍛錬するような奇特な奴はそうそう居ないわよ」
単純に肉体を鍛えただけではこの領域まで達することは出来ない。自分の中に全ての意識を向けるというのは、日々精神トレーニングを続けていなければ絶対に不可能だ。
「・・・確かに、それならば何とかなりそうですね」
「受け止める。っていっても、さすがに完全に捕まえるのは無理でしょうね。だけどわずかな間だけでも止めてみせるわ」
「・・・わかりました。やりましょう」
あなたを・・・信じます。そう思いながらも、もちろん声に出す秋葉ではない。
だいいち、そんな言葉必要ない。今秋葉がやるべき事は、綾香にそんな言葉をかけることではなく、一瞬で敵を滅ぼすために集中する事だ。
「・・・ところで、肝心なことを忘れていたんですが・・・どうやって隙をつくるんですか?」
「それは簡単よ。女の子にとって致命的な隙と言えばとうぜん・・・」
ニヤリと、いやらしい笑みを浮かべる綾香。そして、そのまま素早い動きで秋葉の懐に入ると・・・
ふにょん
「ひっ!」
「おぉっ!いちおう柔らかい何かが在ることはなんとか確認できるわね!!」
二度、三度・・・ふにょんふにょんと・・・綾香が触れているのは、お分かりの通り秋葉の胸だった。・・・もんでいる、ではなく触れているという辺りが、秋葉嬢の胸の貧弱さを表している。
「もうちょっと大きくないと、男の子は満足しないわよ〜」
「な・・・何をしているんですかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」
「あはは♪」
「あはは、じゃありません!この淫売!!よくも私の胸を・・・まだ兄さんにも触らせたことないんですよ!!」
「ごめんごめん。でも、作戦は成功したんだから良いじゃない♪」
「作戦・・・?」
・・・怒りのあまり、なにかとても大事なことを忘れているような・・・。
「来るわよ!秋葉っ!!」
「あっ、はい!!」
突然の綾香の凶行に秋葉の意識は完全に彼女の方へ向いていた。そして、それは造魔にとっては絶好の隙となった。
木々の合間に潜ませていたその身体を表すと、すぐさますさまじいスピードで一直線に秋葉の元へと突き進んでいく。このままいけば、間違いなく彼女は潰されていただろう・・・。
だが、その両者の間に綾香が割って入った。
「来い・・・っ!!」
絶好のチャンスのつもりが、綾香に邪魔に入られて造魔は一瞬困惑した。しかし先ほどの彼女の貧弱な身体のことを思い出すとすぐに安心した。綾香だろうが秋葉だろうが、自分の一撃を受け止めるだけの強度は持ち合わせていないのだから。当たればどっちも同じだ。
・・・もちろん、その考えは間違っているのだが、造魔がそれに気づくのは綾香にぶつかった後だった。
「こっ・・・のぉぉぉぉぉっ!!」
両手を突き出すようにして飛びだしてきた造魔と、それを防ぐために突き出された綾香の掌がぶつかり合う。
骨にまで響くような衝撃・・・「気」によって強化された身体でなかったら、今頃両腕が根本からちぎれていただろう。だが、そんな衝撃を、綾香は・・・止めた。
移動エネルギーそのものをゼロにするのは不可能で、綾香はそのまま地面を滑るように後退したが・・・それでも充分だった。
「これで終わりです!!」
そんな声が後ろから聞こえてくる。と共に綾香は自分の周り一瞬にしてが朱に染まるのを見た。
後方から、両サイドを追い越すようにして朱色の髪が造魔へと殺到する。そして・・・そのままあっさりと腕に絡み付いた。
瞬間!・・・ほんの一瞬にして、土気色だが筋肉の張った腕がミイラのようなしわくちゃへと変化していく。そして、そのまま全てを吸い尽くされると今度は粉のようになって空気に散った。
(触れただけでコレ?えげつないわねぇ・・・)
全ての作業はホンの一瞬。しかしその一瞬でさきほど綾香が100万ボルトの電撃を食らわせても傷一つつかなかった造魔の身体が壊されたのだ。
恐怖すら感じる・・・人間にはあり得ない理不尽な戦い方。もし敵に回ったらと思うと、ぞっとする。
・・・ふと、そこで思わぬ事態が起きた。
両手を粉塵にされてなくした造魔だったが、予想外にもそのまま秋葉に倒されず・・・勢いに任せて今度は口をつきだし、綾香に噛みつこうとしたのだ。
「くぅっ!」
「綾香さんっ!」
普通の人間でも噛みつかれれば痛い。ましてや相手は人間以上の力を持った化け物だ。もし噛みつかれれば・・・骨を砕かれかねない。
「くそぉっ!!」
乙女にはあるまじきその発言は彼女のプライドのためにも無視するとして、綾香はとっさに動いていた。
避けている暇はない。相手が「噛みつく」という攻撃方法である以上防御も難しい。だとしたら・・・やるべき事は一つだ。
すばやく両手を相手の胴へと当てる。そして、噛みつかれるよりも一瞬早く、その両手を突き出した。
ドゥンッ!!
見た目はただ単純に突き飛ばしただけだが、実際には全身のバネと「気」を使った掌底波という強力な技だった。
それをカウンターで入れればさすがの造魔もたまらない。下手なワイヤーアクションのような冗談じみた飛び方で、後方へと吹き飛ばされていった。
そして・・・。
「あ゛っ」
「あぁっ!!」
一つの弾丸と化した造魔は、すばらしい勢いのまま屋敷に直撃し、一本の柱と襖を突き破った。
「・・・やっちゃった♪」
「やっちゃったじゃありません!家を壊して・・・」
『わっ、なんだこれ!!』
「・・・今の声・・・」
「・・・梓さんの声ですね」
秋葉の台詞に割って入った・・・屋敷の奥、造魔の飛び込んでいった辺りから聞こえてきた声は、間違いなく梓の物だった。
さらに、もう一つ、内容は聞き取れないが女の物らしい声が聞こえる。
「どうやら、無事救出できたようね?」
「そのようです」
敵も倒したし、救出もできたし、これでミッションクリアだ・・・と思っていた。
しかし・・・
『ぐが、あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!』
獣の咆吼が、響いた・・・。
「仕留め損ねましたねっ!?」
「梓っ!離れて!!」
自分の失敗を恥じる間もなく、綾香達は屋敷へと上がる。そこで見た物は・・・両腕を失い、口から血反吐を吐きながらも呆然と立ちつくす梓にむかってその牙を向ける人外の獣の姿だった・・・。
抱きしめられていた時間はごくわずかな物だったが、梓は随分と落ち着いてきていた。
まだもうすこし惜しい気もするが、それでも冷静な自分が戻ってくると気恥ずかしさが先にたってしまう。結局、梓は自分から身体を放した。
「・・・ありがと」
「いえ。良いんですよ」
そういってニッコリと微笑む表情はひどく幼いのに、先ほどから感じている雰囲気はとても大人びた・・・母親のような感じだった。
「・・・いつか乗り越えられると信じられる事の強さ・・・か」
この母親のような雰囲気のカナコに言われると、なんとなく納得できる気がする。
「焦らなくったって良いんですよ。自分のペースでやっていけばいいんです。私も、そうしてます」
「私も?」
「・・・はい。私も・・・思い出したくない、今は振り返りたくない過去があるんです」
そういったカナコの瞳は、梓のそれと同じ色をしていた。例えるなら・・・そう、空を見上げるような瞳。憧れるように、しかし届かない自分を知っている・・・悲しい色を宿した瞳。
「私は、逃げたんだと思います。人間として生きることから。抱きしめてくれる温もりに、抱きしめて上げられる温もりに憧れて・・・」
「・・・・・」
「でも、私は信じています。いつの日か、あの過去の日に決着をつけて、人間として生きられなかった自分ではなく、自らの意志で姉様と共に生きることを望んだ自分になれる時が来ることを」
「・・・うん」
強いな・・・純粋に、梓は彼女の事を尊敬した。
この人は、自分とは違う。自分の場合は思い出せないからまだ良い。でもこの人は・・・覚えて居るんだ。苦しいこと。悲しいこと、そしてそれから逃げ出した自分のことを全部、今でも覚えている。そんな中で、彼女は自分のことを「信じる」と言ったのだ。
これ以上の強さがあるだろうか・・・?逃げた自分を。弱い自分を信じられる以上の強さなんて・・・この世には無いと思う。
あたしも・・・こんな風に、強くなりたい・・・!
「・・・さて、それじゃ落ち着いたようですし、そろそろ出ましょうか?」
「あ、そうだね。さっきから何やら外で物音がしてるし・・・」
『な・・・何をしているんですかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!』
「って、言ってるそばから・・・」
「人の声・・・ですね」
「ああ。あたしの連れだよ」
あのですます口調なのに、全然柔らかさを感じさせない怒号は間違いなく秋葉のものだ。
「なるほど。表の人が陽動を仕掛けている間に、梓さんが私を助けに来る、という作戦だったんですね!」
「・・・えっと・・・まぁ、そう・・・かもね」
本当はただ自分勝手に飛びだしてきただけだったりするのだが、自分のちっぽけなプライドを守るためにも梓はカナコの発想に便乗することを選んだ。
「ではやはり、早くここから逃げないと駄目ですね。救助部隊は迅速な展開以上に、迅速な撤退が求められるんです!」
「・・・もしかして、その手の映画・・・好き?」
「はい。かなり♪」
なんというかかなり意外だったが、まぁ趣味は人それぞれだ。
「とにかく、さっさとここから出よ」
「は・・・」
返事をしようとして・・・しかしカナコはそれが出来なくなった。
なにせいきなり、突拍子もなく、外から襖を破って何か巨大な物が飛び込んできたのだから。
「きゃあっ!」
「わっ、なんだこれ!!」
最初は、巨大な鉄球なんじゃないかと思った。しかし、それが造り上げた大きな穴から入ってくる月明かりが、その答えを否定する。
良く見るとそれは・・・人だった。
「人・・・かぁ?」
梓が疑問系なのは、まさか人間が屋敷の柱を折り、襖をぶち破って飛び込んでくるなどありえないという常識からだった。
「あっ!こいつ・・・こいつが私を浚った張本人です!」
「そうなのか?じゃあこいつは化け物・・・って、こいつ、手がない!?」
人間の男の姿。しかしそいつには両腕が肩の辺りから丸ごとなかった。しかもその無くなり方が・・・切り取られたとかそんな感じではなく、むしり取られたようなそんな感じなのだ。
相手が化け物だとわかっていても、人間の姿でそんな痕を見せられると・・・梓は屋台で食べた焼きそばが食堂へとせり上がってくるのを感じて慌てて口を押さえた。
「それにしても・・・随分派手にやられてますね・・・」
「そんなにジロジロ見てだいじょうぶなの?あたしは・・・駄目っぽい」
「私はこういうの見慣れてますからね。慣れてくると結構可愛いですよ?なんていうか・・・蓑虫みたいで♪」
「・・・なんか、あたしって知り合う奴、全員こんな危ない奴ばっかりなんだけど・・・」
誰でも良いから、まともな一般市民・・・バカみたいなお金持ちで肉弾戦の大好きな暴力お嬢様とか、人のことをネチネチと虐めるために生まれてきたとしか思えないような冷徹お嬢様とか、食卓に輸血パックを堂々と持ち込むおバカな吸血鬼とか、まして両腕を無くした人間の姿を見て可愛いなんて言っちゃうような奴とか、そういう事のない人・・・と知り合いになりたい。そう涙する梓だった。
「これ、持って帰って姉様の玩具にしようかな・・・?」
ピクリとも動かない事に安心したのか、カナコはもっと近くで見ようと倒れた造魔に近づいた・・・。
しかし、それはまだ早かった。
「・・・っ!下がって!!」
「あ・・・」
「ぐが、あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
造魔はまだ生きていた!
梓はとっさの判断で手を伸ばし、カナコの襟首をつかむと問答無用で自分の後ろに引き下げた。
・・・それによって、必然的に造魔に最も近いのは梓と言うことになる。
両手なしで器用に立ち上がった造魔の口からは血がどろどろと吐き出され、まさに満身創痍といった感じだった。
なのに・・・なのに、瞳だけは強い意志を灯している。
自分に向け、開かれた口。
放っておけば死に至るであろう傷を負いながら、それでも目の前の獣は自分を・・・喰い殺そうとしているのだ・・・。
そのことにショックを受けた梓は・・・反応が遅れた。
「梓っ!離れて!!」
綾香の声に、なんとか反応を取り戻したが、とっさに腕でガードすることしかできない。
だれもが・・・梓本人すらも、やられると思った。ガードした腕を食いちぎられ、目の前の造魔と同様に腕なしになってしまうんだと、そう思った。
だが・・・
ビリビリビリッ
繊維が引きちぎられ、破れていく音がした。
「あ・・・」
「あ・・・」
「あ・・・」
「あ・・・」
「が・・・」
空気が・・・止まった。
梓、綾香、秋葉、カナコ・・・そして造魔までもが、止まった。
ゆっくりと、自分の腕を見る梓。
大丈夫。腕はちゃんとついている。
・・・ただ、ついていないのは・・・浴衣の袖だ・・・。
「あぁ・・・」
吐息のような、そんな言葉にならない梓の声。それ以外に声はない。
誰一人として、今この瞬間に口を開くことが出来なかった。
・・・爆発寸前の核弾頭に、自分から近づく者など居るわけがない。
「母さんに買ってもらった浴衣なのに・・・。小さくなってから、わざわざ自分で同じ生地を探してきて仕立てなおしてもらった奴なのに・・・。それを・・・それを・・・」
綾香と秋葉が五歩ほど後ろに下がる。カナコにいたっては部屋の隅っこでガタガタと震えている。
造魔は・・・当然のことだが、逃げられるワケがなかった。
「こぉんの・・・どアホぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおぉぉぉぉっっっっ!!!!」
怒り全開。大リーガーのホームラン王のような豪快なスイングのその一撃は、まるで本当に野球のボールを打ち返すように造魔の顔面をミートする。
衝撃が顔面から後頭部へと突き抜け・・・そして、造魔はすさまじい勢いで夜空の向こうへと吹き飛ばされていった・・・。
「す、すご・・・星になったわ・・・」
「・・・そんな馬鹿な・・・」
造魔が消えていった遠い夜空を眺めながら・・・綾香と秋葉は唖然とした表情で呟いた。
その後ろで、梓は一人、泣いていた・・・。
一方そのころ、意外な組み合わせの三人は・・・
鶴来屋、屋上・・・。
「良い景色ですなぁ」
「良い景色ですね」
「月がおっきいにゃ〜」
「酒も美味しいですなぁ」
「美味しいですねぇ」
「ワインも良いけど、日本酒のいけるにゃ〜」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・ん?」
「どうしました?」
「どうしたにゃ〜?」
「いえ・・・今、なにか人のような物が山の方から海の方へ飛んでいったような・・・」
「流れ星じゃないんですか?」
「見間違いにゃ〜」
「・・・ですな。まさか人間が・・・。私も、もう歳ですかな?どうやら酔ってしまったようです」
「そりゃあ、もうこれで五升目ですからねぇ」
「飲み過ぎにゃ〜。明日二日酔いにゃ〜」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・風流ですな・・・」
「風流ですねぇ」
「風流だにゃ〜・・・・・って風流って何?」
なんだか、意外と楽しそうだった。
中書き
なんで前編、中編を足したのより後編の方が長いんだ!!(セルフツッコミ)
・・・さて、後編が終了ですが、いちおうもう一つ、エピローグと次回予告があります。
というわけで、後書きはそちらの方に・・・。
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