世界観設定:KANON本編を全て一年繰り上げているパラレルワールドです。つまり、祐一は一年のときに転校してきたという事になります。そして、その後に栞、真琴、舞(佐祐理)、名雪とクリアーした状態です。これは第二回KANONSSこんぺで書いた「ぷら☆ちな」と同様の世界設定です。








1/事の始まり――猫の聖域


「あんまり奥まで入っていくなよ〜?」
 などと言ってみたところで、前方を歩く少女には通じないことは分かっている。
 相沢祐一は今現在自分が置かれている状況を考え、ため息一つ吐いた。
 彼が現在住んでいるこの街の全体を、見下ろすように広がるものみの丘。この街の中で唯一未だ人の手がほとんど入ってきていないその場所から、少し離れた場所に祐一達はいた。
 まず、その場所には空が無かった。
 いや……もちろん別に空が消失したわけじゃあない。
 ただ空を覆うように左右から緑の天井が広がっているだけだ。
 視界一杯に広がるのは黒と茶色と深い緑。
 もう秋だというのにこのウザったい緑は、いつまでたっても色を変えない針葉樹の所為だ。これが鮮やかな紅葉だったら、ちょっとした紅葉狩り気分を味わえたかもしれないのに。
 ……いや、それも無理な話か。
 なにせ一面の木、木、木!
 上下左右、何処を向いても木ばっかり。
 山に木が無かったら大変なことになると分かっていても、これだけたくさんあると鬱陶しくなるものだ。
 その上今現在歩いている道が整地された山道ではなく、でこぼこと木の根が張り出した獣道なだけに、周りの景色を見て楽しむ余裕など無い。
「お〜い。もうちょっとゆっくり歩かないと危ないぞ〜って、言ってる傍からこけてるし!?」
 前方約三メートルを歩いていた少女が唐突にこけたものだから、祐一は慌てて駆け寄った。
「イタタ……」
「ほら、言わんこっちゃない」
「エヘヘ。ごめんなさい、祐一さん」
 小柄の少女の身体を助け起こす。
 美坂栞……それが彼女の名前だった。
 祐一より一つ下の高校一年生。その割には、まるで中学生なのではないかと思うくらい小さく細い。助け起こす時に手にかかった重みも、驚くほど軽かった。
 その白い肌は天然というよりも、純粋に日の光に当たる機会が少なかっただけだろう。
 彼女はつい半年ほど前まで死にかけていた。
 冗談では無い。比喩的表現でもない。
 本当に、死の淵をさまよっていた。
(さまよってたはずなんだけどなぁ……)
 今はもう元気一杯。むしろそれまでの鬱憤を晴らすかのようにがむしゃらに元気になってしまった。 
「でも、猫さん見失っちゃいました」
「だいたい向かった方向は分かるけどな」
 森のさらに奥のほうを眺め、祐一は答えた。
 今日は日曜日。祐一と栞は街に遊びに出ていたのだったが、途中で一匹の猫を見つけた。
 普段ならだから何なのだという程度の話なのだが、「可愛いですね〜」と撫でようとした栞に、何故かその猫がいきなり襲いかかり――いや、飛びかかり――彼女の持っていたバッグを漁り始めたのだ。慌てて止めに入ろうとした栞と祐一だったが、少し遅く、その猫はバッグの中から『栞の大切な物』を奪い去っていってしまったのだ。
 それを見て、いきなり追いかけ出す栞。慌てたのはむしろ祐一の方だった。元気になったとは言えまだまだ心配は尽きない状況。まさか彼女一人だけ行かせるわけにもいかず、その後を追いかけ――――そしてたどりついたのがこの場所。
「引き返したりは……しないよな?」
「あたりまえです」
「たかが、アイスのクーポン券くらいで……」
「たかがじゃありませんっ!」
 そう。猫が持っていったのは、近くのスーパーで配っていたアイスクリームが五割引になるというクーポン券だったのだ。
 アイスというのは売れるのが夏と冬(暖房の効いた部屋で冷たいアイスを食べるのが良いらしい)だけと、かなり偏りがあるために、夏の終わりにはとにかく安くして在庫処分をしなければならない。恐らくこのクーポン券で売っているのは、それのさらに売れ残りだった奴だろう。
 本来なら普通に大安売りセールでも構わないのだが、クーポン券を使うのは『割引券を貰うとつい使っちゃいたくなる(使わないと損した気分になる)人間の性』を上手く利用しているからだった。
 栞は、その策略に物の見事に引っかかっていた。
「さぁ、早く行きましょう!」
「はいはい」
 先導する栞に、祐一は素直に付き従うことにした。
 一度止まってしまった事で気力に綻びが出来たのかその足取りは先ほどよりも少し重いようだった。それなりに運動もできる祐一には、特に苦にはならないペースだ。
 その後、どれくらい歩いたか……栞のペースなのでそれほど進んではいないだろうが、突然森の終わりが訪れ、木々の天井がなくなり、それまで隠されていた空が現れた。
「わぁ〜〜〜! すごいっ! すごいですよっ! 祐一さん、猫です!!」
「おぅ、猫だな。思いっきり猫だ」
 なるほど、その場所には猫がいた。
 それも一匹や二匹じゃない。二十匹は居るだろうか。
 半数ほどが先ほどの栞の絶叫に驚きすでに逃げる体勢。残りの半分のさらに半分がこちらに興味を示した模様。そして最後の四分の一はまったくこちらの存在など興味がないように昼寝やら毛繕いやらに熱中している。
 種類は様々だが、野良ばかりかと思ったら首輪をつけている猫も居る。
 もしかしたらこの街全域の猫達の溜まり場なのかもしれない。
「名雪さんが居たらすごい事になってるでしょうね」
「そんな恐ろしいこと、思ってても口に出さないでくれぃ」
 この大量の猫の姿を見つけて狂気乱舞する従姉妹を思い浮かべ、祐一はうんざりとうめいた。
 どうせそうなったら、止めるのは自分の役目なのだろうから。
「それにしても、こんな場所があるなんて知りませんでした」
「俺もだよ。なんか……すごいな」
 祐一は辺りを見回し、素直に感嘆の声をあげた。
 森の中だというのにその場所だけぽっかりと穴が空いていて、遮る物の無い天からの光を全面に集めている。深い緑を背景にして空気中の塵が光を反射していて、それはまるで光のドームのように見えた。
 人間の手が入っていない、自然が作り出したその空間はまるでファンタジーの世界のように現実から掛け離れていた。
「名づけるなら、『猫の聖域』って所かな?」
「わぁ! それ良いです! なんかすごくカッコイイです♪」
 何が嬉しいのかはしゃぎまわる栞。
 一方の猫達は突然の闖入者達の大騒ぎを歓迎するわけでもなく、しかし追い返そうとするわけでもなく、つまらなげに眺めている。
「ほら、騒いでないでさっさとさっきの猫を見つけようぜ。あんまり長くいちゃ、こいつらに迷惑だろ」
「あ、そうですね」
 聖域――すでに決定事項――の広さは半径でおよそ五、六メートルほどだろう。その中に先ほどの猫は居なかった。
 だが、少し探してみると、意外にも簡単に地面に落ちている二枚の紙を見つけた。
「クーポン券……ですね。でも、どうして二枚もあるんでしょう?」
 地面に落ちていた紙は確かに栞が持っていかれたアイスのクーポン券だった。しかし、栞がもともと持っていたのは一枚だけ。なのにここにあるのは二枚。
「他の所から持ってきたって事なんだろうな」
「でも、なんでクーポン券なんか? マニアなんでしょうか?」
「いやだなぁ……マニアな猫も、クーポン券マニアも」
 顔を引きつらせながらうめく祐一を傍目に、栞はと言うとクーポン券を――ちゃっかり二枚とも――拾っている。
 しかし、その場所……良く見ると他にもなにか埋まっているようだった。
「なんでしょう? なにか、いろいろ埋まってるみたいです」
「ん? あぁ、ホントだ。……なんだコリャ? 人形の顔?」
 手近にあった石で土を削ってみると、意外と簡単に掘り出すことが出来た。もともと半分地面からはみ出しているような状態だったし、埋められてから大して日にちが経っていないのだろう。
 出てきたのはリカちゃんだか、バービーちゃんだかしらないが、女の子向けの人形の首だった。しかも引っこ抜かれたというよりは噛み切られたという感じの跡が残っている。これが人間なら、立派な猟奇犯罪だ。
「こっちには消しゴムらしきものが……」
「練りけし……『まと○クン』か。懐かしいなぁ。良く無駄に消してはカスを集めてたっけ」
 ちなみに、ただ机に擦りつけただけでは真っ白のカスが出来てしまい、それは『似非』ということでテッチリ鍋と称して出されるカワハギのように糾弾された。
 その他にも様々なものがその場所には埋まっていた。
 独楽、お菓子の空き袋、ビックリマンシール(初代)、十五点のテストの答案、五百円玉……と見せかけて実は穴の空いた謎の鉄の塊、そして……。
「これは……?」
 次に見つけたのはボロボロの封筒だった。かなり長い間ここにあったのだろうか、白かったのであろう紙は茶色く汚れ、ところどころ穴があいている。
「手紙かなんかだろうな……。あっこら、あんまり引っ張るな! 破れるって!」
 封筒の端をつかんで引っ張り出そうとした栞を横に退け、祐一は封筒の回りの土を掘り始めた。
 先ほどと違って、ここからは石を使っても土は固い。草の根がしっかりと張っていて、以前に掘り返された形跡が無い。
 紙を破かないよう慎重にやっていたので、余計に時間がかかってしまった。
「栞、ハンカチとかそういうの無いか?」
「あ、はい」
 栞が差し出した白いハンカチを――ちょっと悪いかと思いつつ――祐一は広げ、その上に掘り出した封筒を置いた。
 封筒はすでに半分土に返りかけているようで、触っただけで端の一部が崩れ落ちてしまうほど脆くなっていた。
 これは一年や二年の歳月どころでは無い様だ。
「あっ! 何か文字が書いてますよ!?」
「あぁ。これは……なんだろ?」
 確かに封筒の一面には文字が書かれていた。しかし、土で茶色く汚れているのと、もともとが鉛筆かなにかで書かれていたらしく、その文字は非常に読みにくい。
「えっと……」
 遺跡調査のように慎重に土を掃い、ジッと擦れた文字を解読する。
 書かれていた文字は、二文字。
「遺……?」
「書……?」
 読み取ってしまった瞬間――――栞の顔にすさまじく活気が満ちていく。そしてそれと反比例して祐一の顔から血の気がうせていった。
「なんかやっばいもん引き当てちまった〜〜〜!?」
「何かすごく面白いことになってきましたよ〜〜〜!!」
 森に響くそんな対照的な叫びを聞きながら、猫が鬱陶しげにぶにゃ〜と鳴いた。




『美少女探偵美坂香里の事件簿 〜二十四年目の断罪〜』




2/美坂家にて――明るい家族計画?



「今日は一日ご苦労様」
 ソファーにだら〜っと倒れ伏している祐一に、我らが美坂香里嬢は苦笑しつつ紅茶を差し出した。
 艶やかなウェーブのかかった長い髪はわずかに湿り気を帯びていて、その美しい顔は仄かに紅く上気している。
 乾燥する時期ではないのでリップは塗っていないのだが、それでも瑞々しい唇が、自分の分のカップ(ただしこちらには牛乳が入っている)に口付けをしていた。
 秋になって肌寒くなり始めたとは言え、家の中ではまだまだ薄着だ。
 上は薄手の黒いTシャツ。下は普段からお気に入りのジーンズ。風呂上りで上気した状態ではなおさらに、この格好がちょうど良い。
 だがその服装は普段制服で隠されている香里の肉体の造形を、いっさい隠すことなく表に出していて、なんとも……視線のやり場に困る。
 普段当たり前にみているはずの香里の、妙に艶(あで)やかなその姿に、祐一は思わず視線をそっぽに向けた。
 照れ隠しに、祐一は早口で愚痴る。
「お守も大変だ」
「聞こえたら殺されるわよ?」
「栞は?」
「まだお風呂。なんかやけに熱心に身体洗ってるわ」
 あの娘、なに考えてるんだか。
 呆れたようにため息をつく香里。
 現在、彼女達がいるのは祐一が住んでいる水瀬家ではなく香里の家の方だった。
 この状況、一応説明しておかなければならないだろう。
 なぜ祐一が香里の家にいるのかというと、それは単純にお呼ばれしたからだ。
 ではなぜお呼ばれしたのかというと……今晩、香里の両親が家を出ているからである。なんだったか……どこかの温泉の一泊二日の旅が懸賞で当たったらしい。
 いや、断じて親の居ぬ間に逢引に来たわけではない。この招待は香里の両親公認なのだった。
 いくら高校生とはいえ、女の子二人だけで家に残すのは危ない。特に最近は物騒な世の中になったから。
 そのため、ボディーガード役を仰せつかったのが祐一だった。普段から姉妹と仲が良く、美坂家が一番苦しい時期から一緒に居たその青年を、美坂夫婦は非常に信頼していた。 
 もちろん、その信用とは娘達に手を出さない信用ではなく、手を出したのならちゃんと責任を取ってくれるだろうという信用だが。
「親公認で、そんなこと出来るかよ……」
 散々歩きまわって疲れた身体をグーッと伸ばし、祐一はため息混じりにつぶやいた。
 あいにくと、明るい家族計画を練るには早過ぎる。
「親公認だろうがそうじゃなかろうが、栞に手は出させないわよ」
「ぐぅ……」
 親公認でも、姉公認ではなかったようだ。
 といっても、祐一も本気で栞に手を出すつもりはなく、これは普段からかわしている彼らなりの冗談なのだが。
「それにしても、だいぶ疲れてるみたいね。ちょっと体力なさ過ぎるんじゃない?」
「良く言うよ……。散々歩きまわらされた挙句、ラストはあんな事に巻き込まれて。肉体的にも精神的にもボロボロだぞ」
「地中に埋まっていた遺書……かぁ。なかなか面白そうな話じゃないの」
 気楽そうに笑う香里を眺めながら、「やっぱり姉妹だ」と口の中で祐一は呟いた。
「それで……? ホントに届けに行ったんだ?」
「行ったさ。というか行かされたさ」
「そう。それじゃとりあえずそこからの展開も聞かせてもらいましょうか」
「へぃへぃ。急かさなくったって、ちゃんと言いますよ〜」
 なにせこれは、栞とのお出かけ前に約束させられた今日一日の行動報告――何か悪さしなかっただろうなぁ? という事――なのだから。
 最初はレポートで報告しろと言われていたのだったが、作文の苦手な祐一が「口頭で勘弁してくれ」と泣きついたのだった。
「それじゃあ、まずは遺書を見つけて猿笠宅に持っていくところからだな」
 祐一は一口、紅茶を含むと、頭の中で整理しておいた今日の行動を報告し始めた。




3/彼女の遺志1――二十四年目の真実


 祐一達の手によって掘り返された『遺書』と書かれた封筒の裏には、名前が書かれてあった。
「猿笠……。エンガサ? サルカサ?」
「珍しい苗字ですね」
 霞んでいて正確とはいえないが、たぶん猿笠で正解だろう。名前のほうは……恵美。
 日付などは書かれていない。非常にシンプルな遺書だった。いや、シンプルではない遺書のほうが珍しいが。
「ここに遺書があるって言う事は、この辺りに死体が埋まってるって事ですか!?」
「止めろよ、そういう事言うの」
 しかも嬉しそうに。
 掘ってみましょうかと鼻息荒く提案する栞を押し留めつつ、祐一は封筒の中身を取り出した。
「読むんですか?」
「ただの悪戯かもしれないだろ? 一応確認しとかないとな」
 いっそのこと、これで『ハズレ』と書かれた紙の一枚でも出てきてくれれば面倒ごとにならずに済むのだが……そこまで期待してはいけない。
 祐一はなんだかちょっと絶望的な気分で封筒の中に入っていた手紙を開いた。


 遺――

 ――――不幸を――――

 ――――――――苦し――――――

 お父さんと―――さんに―――――

 赦され――――――選択は――――

 ――――罪の――――

 父と――子――――――国に――――

         ――――――ン


 ――――――――AC 16:31



 虫食いなのか風化なのか、手紙のほうにも穴が空いていてその内容はほとんど読み取れない状態だったが、一応これだけの文字が読み取れた。
 非常に短い文……だが、冗談で書かれているとは思えない。
 もちろん何の確証も無い、ただの勘だが。
「本物……みたいですね」
「たぶんな」
 書いた人間が若かったのかもしれない。遺書に財産の配分などが書かれていないという事から、少なくともこの恵美という人が分けるほどの財産を持ち合わせていない――――はっきり言ってしまえば被配偶者側の人間だった可能性が高い。
 父親への言葉を書いていると思われることからも、それは間違い無いだろう。
 といっても、ここから得られる情報はそれくらいだ。
 あまりにも短く、しかもほとんど文字が読み取れないために、本文の内容を想像するのは難しい。
「最後のこの数字にはなにか意味があるんでしょうか?」
「意味の無いことを遺書に書くとは思えないがなぁ……」
 言いながらも、祐一自身これが何を意味しているのか分からなかった。何かの暗号かとも思われるのだが、いくらなんでも何のヒントも無しにこれを解き明かす事など出来ない。
 もっともそれが出来たところで、これ以上祐一達にできることは無かった。これが本物であるのならば、ここから先は警察の領域だ。
「届けに行きましょう!」
「そうだな。古いとは言え、一応遺書は遺書だ。警察に届けたほうが……」
「違います! この恵美さんの家に直接届けに行きましょう!」
「はぁッ!?」
 思ってもみなかった栞の提案に、祐一は我が耳を疑った。
「直接届ける? この人の家に?」
「そうです!」
 いや、そうですって……。
 何故とか、どうしてとか、ついでにどの面下げて、というのも気になるところだが、栞に聞いてちゃんと答えてくれるかというと……そんなに甘くは無い。
「でも、住所とかわからないしさぁ」
「電話帳で電話番号を見つけて、電話をかければ良いじゃないですか。そうすれば住所なんてすぐにわかりますよ!」
「いや、そんなポジティブシンキングされても……」
「祐一さんは気にならないんですか?」
 気になる、気にならないの二択で聞かれたのなら、答えは決まっている。もちろん、気になる。
 だが、気になるからといってなんでもして良いわけではない。
 この遺書が本物だというのなら、これは猿笠家のプライベートな問題だ。そこから先には、無関係の人間が好奇心で踏み入れて良い領域ではない。
「それに、これが本物の遺書なら、少しでも早く本来の持ち主のところへ返してあげるべきです」
「ム……」
 確かにそれは正論のように思われた。こんなボロボロで本物かどうか定かではないような物を警察に持っていったところで、ちゃんと対処してくれるかどうか怪しい。祐一は警察を信用していないわけではなかったが、過剰な信頼もしていなかった。
「ね? ね?」
「ムムゥ……」
 祐一はうめいた。うめいた時点で彼の負けだったのだが。
 ここから先の押しの強さは、祐一の交友関係の中でも栞が最強なのだから。



 結局、祐一はあれから数分で栞の押しに敗北してしまった。
 丘から降りた祐一達が向かったのはすぐ近くにあった公衆電話だった。二人とも、携帯電話は持っていないのだ。
 PHS、携帯電話が多く出まわるようになり、徐々にその使命を終え始めているその公衆電話は、なんとなく哀愁すら感じさせてくれる。
 テレフォンカードが主流になり、小銭を回収する必要がなくなってきたその電話は、もう市の役員にも忘れられているのだろう。祐一が手に取ったハローページはどう見ても『最新版』とは思えないくらいボロボロになっていた。
 しかし祐一の心配(期待?)を余所に猿笠家の電話番号はちょっと調べただけで意外にもすぐに見つかった。
 何せこれだけ珍しい苗字だ。この街にはそんな苗字の家は一つしかなかった。
 もちろん、この街の人間だという確証があるわけではない。だがもし他の街の人間だったら端から祐一達にどうこうできる話でもないし、そこで諦めることが出来る。
「かけるぞ?」
「いっちゃってください♪」
 やっぱり無駄だった。ワクワクという表現がピッタリな表情で「Go!」と祐一を急かしてくる。
 祐一は仕方なく、テレカを入れてボタンを押す。
 ぷるる、ぷるる、という気の抜けた音が受話器越しに聞こえ、しばらくして返事が返ってきた。
『はい。猿笠です。どちら様でしょうか?』
「あの〜、猿笠さん……猿笠恵美さんのお宅でしょうか?」
『――――っ』
 受話器の向こうから、息を呑む声が聞こえた。
 妙なリアクションだ……祐一は首をかしげた。
 先ほどの声から、やや老いた感じは受け取れたが……母親? 姉妹? 親戚? それとも……本人?
『……そう、ですが……』
「やっぱり! えっと、恵美さんはご在宅でしょうか?」
『恵美は……死にました』
 先ほどと違ってすばやく返ってきたその答えに、今度はこちらが息を呑む番だった。
 遺書があるのだから、この結果を予想していなかったわけではない。とはいえ、何かの冗談であることを望んでいた気持ちも、嘘ではなかった。
「え、あの、その! それはいつですか!?」
『もう二十四年になります』
 今度こそ、祐一達は息を詰まらせた。
 まさかこの遺書が二十四年間も地中に埋まっていたとは思わなかったからだ。
『……どういったご用件なんでしょうか?』
「すみません。その……恵美さんに、というか恵美さんの家族の方にお届物が……」
『届け物ですか? なんでしょう?』
「あ〜……非常に言い難いのですが……」
 言葉を選ぼうとして……最早選ぶ言葉も無いことに嘆息する。なんだかトンでもない事に巻き込まれてしまったようだが、ここまで来てしまったら今更引き返すことは出来ない。
(なんか、俺の人生ってこんなんばっかり……)
 嘆いても始まらない。
 祐一は、覚悟を決めてその一言を口に出した。
「遺書です」




4/彼女の遺志2――涙の断罪


 二人は最寄のバス停から三つ先の停留所まで行き、さらにそこから十五分ほど歩き、猿笠宅へ到着した。
 閑静な住宅街の中の建売住宅の一つがそれだった。二階建てで紅い三角屋根……大きさは水瀬家と同じ位か。
「どうぞ」
「あ、どうも」
 通された場所はリビングだった。洋風の、キッチンとリビングがくっついているタイプだ。
 広さはやはり水瀬家と同じ位だろうか。良く整頓されている……、というよりは圧倒的に物が少ないのだろうか? 実際の広さよりもやや大きく感じられる。
 表札を見た限りではこの家には現在二人しか住んでいないのだろう。
 先ほど出されたこの良い薫りのする紅茶を入れているカップも、なんだかほとんど新品のように見えた。
 同じ四人がけのテーブルの隣に座った栞は、綺麗に掃除されたフローリングの床で、来客用のスリッパをパタパタと鳴らせている。祐一はぺちっと太ももを叩いて、それを止めさせた。
 次いで、祐一は正面に座ったその女性を観察してみた。
 恵美さんの母親であると名乗ったこの初老――六十台前半? それともまだ五十台か?――の女性は名前を由紀子と言った。
 確かに、表札には猿笠大樹と猿笠由紀子の名前があったのを覚えている。
 痩せてひょろりと背の高いその姿は、なんとなく幸が薄そうに見える。目立ち始めた白髪が余計にその色を強めていた。
 顔に刻まれた皺の形から、祐一は彼女が幸せばかりの人生を送ってきたわけではない事を悟った。
「それで……その遺書というのは……」
 祐一達二人に紅茶を出し、正面に座わった由紀子さんは戸惑いがちに切り出してきた。
「あ、はい。これです」
 ハンカチで丁寧に包んでいた封筒を、そっとテーブルの上に置き、差し出す。
 由紀子さんはその茶色く汚れた封筒を見て数瞬躊躇った様子だったが、やがて覚悟を決めたのか中を取り出した。
 パラパラと崩れそうになるのに気を付けながら、手紙を開く。
 しばらく、沈黙が続いた。
 やはり文字が読み取りづらいのだろうか、由紀子さんは何度も食い入るようにその『遺書』に目を通していた。
「間違い、ありませんね?」
 恐らく……と由紀子さんは頷いた。
 そして不意に立ち上がると、無言で祐一達の横を通り過ぎた。
 その背中を追った先――リビングの隅、窓の傍――に、祐一は一枚の写真を見つけた。
 木枠に嵌め込まれた通常サイズの写真。どこかの公園だろうか、花壇をバックに猫を抱いた少女が満面の微笑みを浮かべている。
 素人写真だからか、それともそれが少女の地なのか……肌に色彩が無い。
 透き通るように、というよりはむしろ虚ろなくらい透明なその肌は、どこかオバケじみていた。
 浮かべている満面の笑顔がなければ、オバケ屋敷でオバケのバイトをしていた時にとった写真ですといわれても違和感無かっただろう。
 その所為か、写真に写っている彼女は若いようにも見えるし、どこか年老いているようにも見える。
 祐一はそれが、恵美さんであると直感で理解した。
 しかし、そこには見た限り位牌も仏壇も何もなく、ただ写真の前に花が添えられているだけだった。
 由紀子さんもその写真の前に膝をついただけで、何をするわけでもない。手を合わせたり念仏でも唱えたりするわけでもなく、ただじっと眺めているだけだった。
「恵美さんは……自殺だったんですか」
「――――いいえ。病死よ」
 祐一の問いに、少し間が開いてから返事が返ってきた。
「恵美は生まれた時から心臓を病んでいたわ。病名はもう忘れてしまったけれど、心臓にいくつも小さな穴が空いてる病気……障害だった。そのために、小さい頃からちょっとでも激しい運動をするとすぐに発作を起こしていたわ」
 その言葉は、祐一達にというよりはむしろその写真に向けられているように感じられた。
 写真の向こうにまだ生きている恵美さんに向かって話し掛けているように……。
「死因はその発作ですか?」
「……もう限界がきていたのよ」
「限界?」
「心臓に空いた小さな穴は、心臓そのものが大きくなるにつれて致命的な欠陥になるの。そこから大量の血が流れ出てしまうから。恵美は十六歳が限界だといわれていたわ。……でも、あの子は十七まで生きた」
 由紀子さんは、まるで何かに言い訳するようにそう呟いた。
 心臓はポンプだ。血を前身に送るためのポンプだ。だから穴が空いていては役に立たない。ましてそれが大きくなればなおさらに。
 時限装置と一緒だ――――祐一はやり切れない思いで、心の中で呟いた。いつ死ぬかは分からない。だけど、そう遠くないうちに必ず死ぬ。そんな時限装置と一緒だった。
「子供の頃から病室か、家の自分の部屋のどちらかに閉じ込められていた。十歳になる頃にはまともな運動すら禁止されるようになっていたわ。だから恵美はね、小学校にもまともに通ってないのよ。ずっと同じ部屋の中で、窓の向こうを走る同年代の子供達を眺めながら、一人で本を読んでいるしかなかった」
 由紀子さんは、こちらを見ることなく独白を続けた。
「唯一の友達はどこからかやってくる野良猫だけだった。恵美がすごく可愛がっていてね、猫のほうも良く懐いていて……家にいるときは毎日一緒にいたわ」
 その猫が写真の中で恵美さんが抱いている猫なのだろう。キジ虎のまだ若い雑種だった。
「……手術は出来なかったんですか?」
「その病気の対策は当時はまだ発見されていなかったのよ。心臓という唯一の機関の先天的な障害ですからね。手術の仕様が無かった。海外に出ればあるいは手があったかもしれない。だけど、それには莫大なお金が必要だった」
 日本でも医療にかかる金額は非常に高い。だが、それはあくまで保険料の自己負担分だけの話だ。
 海外に行って、保険の効かない所で医療を受けると、その金額は日本で受けた時とは比べ物にならないくらい高くなる。
 海外での心臓の手術に、どれほどのお金がかかるのか、まだ高校生の二人には想像すら出来なかった。



 三人とも、言葉も無く沈黙する時間がしばらく続いた。
 その重い沈黙を最初に破ったのは、それまで黙っていた栞だった。
「あの……恵美さんの部屋をみせてもらっても構わないでしょうか?」
「栞っ!?」
 祐一の複雑な感情が入り混じった叱責を無視するように、栞は由紀子に頭を下げた。
「他人とは思えないんです。私も……同じだったから」
「同じ?」
「私も……半年前まで病気で入院していたんです。その病気は現代の医学では治るものではなく、次の誕生日まで生きられないと言われました」
 由紀子さんの驚きは、こちらにもハッキリと伝わってくるほどだった。
 分からないでもない。今のこの栞の姿を見て、半年前の悲惨な病状を想像できる人はほとんど居ないだろう。
「私は恵美さんと違って心臓じゃなかったですけど、それでも……他人事じゃないんです」
 身を切るような声だった。いや、そう聞こえたのは祐一の感傷だったのかもしれない。
 病が治ってからこれまで、栞にしろ祐一にしろ、その事を会話にあげたことはほとんどない。美坂家では一種のタブーになっていた。
 だが、彼女は自らその事を告白した。それはつまり、それだけの強い思いがあると言う事なのだろう。
 由紀子さんはしばらく戸惑っていた様子だった。初対面の人間の言葉をどれほど信用して良いのか、分からなかったのだろう。だがやがて栞の本物の気持ちが届いたのだろう、ゆっくりと頷いた。
 恵美さんの部屋はてっきり二階にあるものかと思っていたのだが、案内されたのはリビングから出てすぐの、一階の部屋だった。
 なるほど、考えてみれば当然かもしれない。
 心臓に病を抱えた恵美さんに階段の上り下りという負担を与えるワケにはいかないだろう。
 ドアを開けて中へ通された祐一は、不躾かと思いながらも部屋の中をみまわした。
 恵美さんの部屋は綺麗に片付いていた。
 もともと客間だったのだろう。八畳ほどの大きさの部屋だった。学習机と本だな、ベッドに箪笥というごくごく簡単な家具しか置かれていないが、このまますぐにでも生活ができそうなほど綺麗に片付いている。さすがにベッドにシーツが掛けられているという事は無かったが、カーテンなどはそのままのようだった。桃色の、やや少女趣味――使用者が少女だったのだから気にすることではないか――のカーテンだった。
 学習机には教科書の類は存在していない。ただ、その代わりに参考書が並んでいた。中には大学入試用の問題集なんて物まで並んでいる。さらに本だなを見ると『道ありき』や『塩狩峠』など、どういう本なのかは良く分からないがどう考えても十六の少女が読む本とは思えない本ばかり。
 勉強もほとんどせず、少女漫画ばかり読んでいたどこかの誰かとは大違いだ。
 二十四年間使用されていなかった割には埃一つ無い綺麗な部屋だった。恐らくは掃除を欠かしていないのだろう。
 だが……だからなんだというのだ。
 祐一は頭痛をこらえるように、瞼を閉じた。
 部屋が綺麗だったとして、そこに何の意味も無い。
 その部屋を使う人間がいないのならば。
 恵美さんの部屋は、もうすでに死んでいた。どんなに綺麗だろうと片付いていようと、使う者の居ないその場所はただの抜け殻――――廃墟だ。
「奇跡が起きなかったら、私も同じ未来だったんでしょうね」
「あぁ」
 栞の言葉に、祐一は小さく頷いた。
 本当に、奇跡だったと思ったから。
 栞の努力とか、祐一の努力とか、そんなことが問題なのではない。
 諦めなかった強さとか、そんなものが重要なのではない。
 何故なら、彼女も……恵美さんもきっと、諦めたりなんかしなかったから。
 いつだって生きたいと思ってから。
 だけど、思ってるだけで生きられるほど現実は甘くない。現実はいつだって残酷なくらい牙をむく。
 その牙は……想いすら、希望すら飲み込んでしまう。
 だから、ここにいる栞達は本当に奇跡なのだ。
 『運が良かった』――――その一言。
「私は、本当に運が良かったんです」
「あぁ。そうだな」
 ベッドの傍には大きな窓があった。庭とは呼べない程度の小さなスペースに植木鉢が並んでいる。
 ガーデニングというやつなのだろう。今はこの部屋同様寂れているが、恐らく二十四年前は色とりどりの草花が咲き乱れていたに違いない。
 その庭を挟んだ向こうの道を、小学生らしき子供達が楽しそうな笑い声を上げながら走っていった。
 恵美さんはこの部屋で一人、その声をどんな気分で聞いていたのだろうか。死に瀕した彼女は、どんな思いでそれを見つめていたのだろうか。
 栞に聞けば、あるいは答えを返してくれたかもしれないが、まさかそんな事が出きるわけも無かった。
 祐一は続ける言葉も無く、再び部屋の中に視線を走らせた。
 部屋の端、ベッドの置かれた壁の所に、カレンダーがあった。
 年号は二十四年前……これもそのまま残してあるのだろう。日の光が当たらない場所だったので、焼けてはいないが紙の艶やかさが失われているように見えた。
「……ん?」
 ふと、祐一はそのカレンダーの隅っこに小さく文字が書かれているのを発見した。
 近寄って良く見てみると、それは一つの数列だった。
「この数列は……」
「あ、これってあの遺書に書いてあったのと同じですよね?」
 祐一の隣からぴょこっと顔を出し、栞が聞いてきた。確かに、それは遺書に書かれてあったのと同じ法則で書かれていた。

『JO3:15−16』

「なんなんでしょうね、これって……」
「あぁそれは……」
 二人して首をかしげているその背中に、由紀子さんの声がかかった。
 ……だが、かかっただけで、そこから先に続かなかった。
「――――――っ」
 息が詰まったようなその声にならない声に、祐一と栞は慌てて振りかえった。
 驚愕……という表現が正しいのか分からない。だが、振り向いた先にあった由紀子さんの表情は、尋常ではありえない物だった。
「由紀子さん?」
「う――――……」
 由紀子さんの瞳から、唐突に一粒の涙が流れた。そしてそれを切欠に、流れ出た涙は止まらなくなっていった。
「ウアアアアアアァァァァァァァァァァッ」
 止まらなくなった涙は、そのまますぐに大雨のような泣き声を呼んできた。由紀子さんは倒れるように床に膝をつくと、そのまま声の限り叫んだ。
 まるでこの世の終わりを嘆くかのように。まるで愛するものを引き裂かれたかのように。
 言葉も無く、吐き出されるのは嘆きという名の叫び声だけだった。
「アアアアアアァァァッァァァァァァッァァァッ!」
 泣きじゃくる由紀子さんに声を掛けることも出来ず、祐一と栞はその場に立ち尽くしていた。




5/一つの真相――癒しのとき


「というワケ。いきなり泣き出してさ。そのまま三十分近く泣き続けてたんだぜ? そのまま放って帰る訳にもいかないし、どうしたもんかと……」
「フフフッ、それは確かに大変だったわね」
 全部話し終えて、最後に祐一はそう締めくくった。
 本当にあの後は大変だった。結局泣き止むまで声をかけることも出来ず立ち尽くし、泣き止んでからも精神的に不安定な由紀子さんを一人残して良いものか心配していたのだ。
 一応、本人が「大丈夫」というものだから、その言葉に従ったのだが……泣いた理由がわからない祐一達はなんとなく後味の悪い気分のまま帰路についたのだった。
「でも、あんな事になって……。栞に変な影響が出なきゃいいけど……って心配してたんだけど、なんかいつも通りだったな」
 帰り際の栞は少し落ちこんでいるように見えないことも無かったが、美坂宅に着く頃にはもういつも通りのはっちゃけお嬢さんに戻っていた。
 この少女の精神的なことに関しては必要以上に心配していた祐一としては、正直拍子抜けしていた。
「あの子は馬鹿じゃないわよ。オバカだけど、馬鹿じゃない。だから、ちゃんと分かってるんだわ」
「分かってる?」
「あの子はね、まだ私に遠慮してるのよ」
「遠慮? 栞が?」
 無駄にはっちゃけては他人に迷惑を掛け捲ったり、アイスを暴食(祐一の金で)したり、古本屋で二時間も立ち読みに着き合わせたり……。
 あの少女に遠慮という文字があるのか激しく謎だ。
「そういう所が少しだけ憎いわ」
 ワケが分からない様子の祐一に、香里は微笑を浮かべたまま小さく呟いた。
 その表情の所為で、声に含まれていた微妙な嫉妬と後悔に、祐一は気づかなかった。
「……にしても、結局どうして遺書が森の中にあったんだろうな? 恵美さんは死ぬ何ヶ月も前から一人で家を出た経験はなかったらしいし、一人で出る機会があったとしてもとてもじゃないが丘を上れる体力は無かったらしいし。なんていうかミステリーな感じだよな〜」
 う〜んと首をかしげる祐一。
 しかし、それに対して香里はあっさりと、こう言った。
「犯人は猫よ」
「――――――は?」
「恵美さんの遺書が森にあったのは、猫が持っていったからよ」
「え……いや、どういう事だ? 猫って恵美さんが可愛がってた猫のことか?」
「そうでしょうね。相沢君は知らないかもしれないけど、猫にも犬みたいに物を隠すっていう習性があるのよ?」
 犬……つまり狼の場合は食料の保存というのが目的なのだが、猫の場合は単純に自分の獲物を他者に奪われないように自分の巣まで運ぶというのが目的だ。
 この辺りは常に集団で行動する犬科と、単独で行動する猫科の違いに関係している。
「でも……なんで遺書なんか?」
「遺書と意識してたわけじゃないでしょ。ただ、恐らく……自分へのプレゼントだと思ったんじゃない?」
「プレゼント?」
「恵美さんは自分の部屋で猫と遊んでいたんでしょう? 恐らく餌付けもしていたでしょうね。ここで良くされる誤解があるんだけど、人間は猫を家に招いて遊んであげている気分になってるけど、実はそれは大きな間違い。猫にとってはね、餌を取れる場所というのは全て自分のテリトリーなのよ」
 群れで生きることの無い猫は誰にも支配されない。
 猫が人間に懐くのは、人間を慕っているからではなく、それが美味しい食事や安全なねぐらを用意してくれることをしっているからだ。
「猫って言うのはね、犬みたいな忠誠心みたいなものはないの。でもね、自分のテリトリーには厳しいのよ」
「そっか。それじゃあ猫が自分のテリトリー内にある自分の物だと思って、持ってっちゃったワケか」
 どこかに書いて隠しておいたのを見つけたのか、それとも隠すよりも前に持っていってしまったのか、恐らくは前者だろう。ともかく猫はそれを自分のものだと思い、それを自分の安心できる場所へ――猫の聖域へ――持っていってしまったのだ。
「じゃあ栞のクーポン券を持っていったのも同じ事なのか?」
「猫にクーポン券が見分けられるとは思えないから、たぶん自分の物を奪われたんだと勘違いしたんじゃない?」
「なるほど、だからあの場所には二枚のクーポン券があったわけか」
 ぽんっと手を打つ。他の埋まっていた物も、恐らくその猫が(あるいは他の猫が)持ってきた物なのだろう。
「なっるほどねぇ……。しっかし、だとしたらなんとも端迷惑な猫だなぁ。そいつのおかげで自殺が病死になったっんだから。……あ、いや、自殺よりは病死のほうがマシなのかな?」
「本当に自殺だったとしたらね」
「――――へ? 自殺……だったとしたら? どういう事だよ?」
 香里が突然とんでもない事を言うのには慣れている筈の祐一だったが、さすがに今度の言葉は聞き逃せるものではなかった。
「恐らく、恵美さんは母親に殺されたのよ」
「なぁッ!? マヂか!!」
「確証は無いわよ? ただ相沢君の話してくれた情報だけで組み立てた論理だからね」
「俺が話した情報? なんかそれらしいこと言ったか?」
 祐一が語った今日一日の行動からその結論を導き出したというのなら、祐一もまたその結論に達していてもおかしくないわけだ。
 しかし、いくら考えても祐一には分からない。
 あの由紀子さんが恵美さんを殺したとはどうしても思えなかった。
「ん〜そうね。例えば、恵美さんの仏壇や位牌が無く、その代わりに写真と花が置かれていたっていう状況……これから想像できるのは、彼女の家は基督(キリスト)教だったんじゃないかって事」
 基督教には所謂戒名の類が存在しない。当然ながら仏壇なども存在しないのだ。
 その代わりとして、写真と花を飾り死者を厭う。
「いや、いくらなんでもそれだけじゃあ……」
「他にも、恵美さんの部屋にあった本のタイトル、遺書の文章などから大体想像できるわ」
 恵美さんの本棚にあった『道ありき』と『塩狩峠』…。これは三浦綾子という作者が書いた作品で、キリスト教に関係している本だった。
「そして、ここからが問題なんだけど……。相沢君も知ってると思うけど、基督教は自殺を禁じているのよ」
「あ……そっか、そうだったな。つまり恵美さんが自殺するわけが無いって事か」
「そう言う事」
 基督教では自殺は業罪だ。
 恵美さんがどの程度信仰していたのかは推測の域を出ないが、関連書物が大量にあったことも考えると、それなりには信仰があったと考えるのが妥当だった。
「でも、それだけじゃ病死で無いという証明が……」
「焦らなくてもちゃんと後で説明してあげるわよ」
 チッチッと人差し指を振り――その仕草がやたらと似合っている――香里は続けた。
「恵美さんの死因が殺人であった場合、まず動機はやっぱり金銭的と精神的な問題でしょうね」
「でも、精神的ってのはともかく、金銭的な問題はあったのかな? こう……なんか酷い言い方だけど、もうすぐ死ぬってのにさぁ」
「死ぬときは病院のベッドじゃなくて自宅で……っていう人はたまに居るけどね。実は病院では死にかけていたのに、自宅に帰った瞬間元気が回復したっていう人も結構居るのよ」
 自分の慣れ親しんだ場所に戻ると気力が回復するという人は実は結構多い。ただでさえ、病院は無機質で薬臭く、娯楽が無い。その上『死』というイメージを嫌でも連想してしまう。
 そんなところに長期入院していれば、気力が無くなっていくのは当然といえば当然だった。
「病は気から、だからね。最近はそういう患者の精神的なケアにも注目されてるんだけど、二十四年前にはそんなのなかったでしょうね。
 それはともかく、定期的な往診代と薬代だけでも馬鹿にならない。家計はどんどん圧迫されていく。その上病院では数時間だけ一緒にいるだけだけど、家にいれば一日中面倒を見なければならない。まして、恵美さんが心臓に病気を持っているのならなお更、気が抜けないわ。この心労は並大抵のものじゃない。だけど当の病人はいつまでたっても死なない」
 香里の言い方に、祐一は「酷い」……とは言わなかった。
 目の前の彼女が、実際にその苦痛を味わってきたからだ。
 綺麗ごとばかりの世界じゃない。その程度のことは理解できるくらいに大人になってしまった。
 人はいつだって正しいことばかりを選んで生きられる生物じゃない。時には間違っていることも、自分を救うために犯していまう。
「だから、殺そうとした」
 その呟きは、むしろ彼女自身の告白のようにも聞こえた。
 慌てたように香里の顔を覗き込む祐一に、彼女は何事もなかったかのように相変わらずの微笑を向けた。
「もちろん、動機はそれだけじゃないでしょうね。私も母さんに聞いたことがあるもの。自分の子供がね、病気で苦しんでいる姿を見るって言うのは親にとって何にも変えがたいくらいの苦しみなんだって。母さんもね、栞を看ていて、こんな苦しいのならいっそ殺してあげたほうが幸せなんじゃないかって、本気で考えたこともあるらしいわ」
「そうか……」
 病気の子供をもった母親の気持ちなんて、祐一には想像することしか出来ない。
 ただ、「先天奇形の児は身体の障害を、親は心の傷を持っている」という言葉がある。
 子供というのは、親にとって本当に、自分の身体の一部のような存在なのだろう。
「殺害方法だけど……これは何かショックを与えたんでしょう。心臓に病気を抱えていたのなら、ちょっとした事でも致命傷になったはずね」
 それに、その方法ならば死因を疑われる事が無い。
 いつ発作を起こして死亡してもおかしくなかったような病人なのだから。
「だけど、それじゃあ立証不可能なんじゃないのか? 恵美さんを死に追いやった発作が由紀子さんの手によって起こされた物であるかなんて、証明するのは不可能だと思うんだが……」
「でしょうね」
「そんな気楽に……。言い出したのは香里だぞ?」
「証明は出来ない。確証も無い。だけど、恵美さんの遺書が一つの真相を指し示してくれている」
「あの遺書がなんか関係あるのか?」
「相沢君、あなた遺書に一つの数列が書かれていたといったわよね? それに確か、恵美さんのカレンダーにも同じようなのが書いてあったのよね?」
「数列? あぁ、確か……カレンダーの方は『JO3:15−16』だったっけ?」
「そう、それ。えぇっと、何だったかしら。確か……『それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』だったかしら」
「それって……!」
「そう。聖書よ。ヨハネによる福音書三章十五節から十六節」
 先頭の『JO』は英語での『JOHN』を省略したもの、その後ろのは章と節を表しているものだったのだ。暗号なんかではなかったのだ。ただ、一般人には伝わらない表記法だっただけで。
「それじゃあ、遺書に書かれていた『AC 16:31』は……」
「こちらも正確じゃないけど……『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』だったはずよ。『AC』は『ACTS』の省略形。使徒言行録十六章三十一節ね」
 基督教の考え方で言うならば、人は皆生まれながらにして罪(原罪)を背負っている。死んだ後、『主』の国である天国へ行くためには、神を信じ、基督教を信じ、その罪をあがなわなければならない。
「ま、簡単に言っちゃうと、信じるものは救われるってやつね」
 なんて言いながら、香里は肩をすくめた。
 その仕草から彼女が基督教の信者でないことは明白なのだが、だとしたらどうしてそんな聖書の言葉を覚えているのだろうか?
 祐一は尋ねたが、返ってきたのは「一般常識よ」なんていう欠片ほども真実味の無い返答だけだった。
「恵美さんは知っていたのよ。母親の苦しみを。経済的、精神的に追い詰めていることを。だから、遺書を書いた」
 母親が追い詰められている事を知って。いずれ彼女が自分を殺すだろう事を知って。
「もし万が一の事があっても遺書を残しておけば母親が罪に問われる事は無い。自分が基督教信者であることを知ってる人には疑われるかもしれないから、一文字一文字自筆で書いて。署名までした」
 基督教信者であった恵美さんにとって自殺は業罪だった。だが母親の為に、彼女は自らその罪を背負おうとした。
「そしてその最後に、聖書の言葉を書いた。基督教の信者なら、その意味に気づくだろう事を信じて」
 人は皆、罪を背負って生きている。だが、例えどんな罪を犯そうとも、主イエスを信じるのならば必ず救われる。主を信じ、基督教の教えを守って生きるのならば、誰でも救われる。その言葉を、恵美さんは由紀子さんに遺したのだ。
 自分が、恨みを持って死んでいった訳ではなく、その罪が赦される事を祈りながら死んでいったのだと伝えるために。
「その事に気づいたから、由紀子さんは泣いたのか……」
 喉を張り裂かんばかりに大声を出し、涙がかれるまで泣き続けた由紀子さんの姿を思いだし、祐一は苦々しく笑った。
「二十四年たって……やっと救われたのかな?」
 苦しみ続けてきたのだろう。ずっとずっと。
 自分がお腹を痛めて生んだ最愛の子供を、自分の手で殺してしまった罪に、ずっと苦しみ続けてきたのだろう。
 親にとって、子供は自分の身体の一部だから。由紀子さんが殺したのは、彼女自身の心も同然だった。
「不思議よね。罪って……誰かに赦してもらわないといつまでたっても消えないのよ。犯罪を犯した人間が、刑務所に行く……それは一つの赦しなのよ。社会が犯した罪を赦してくれる。認めてくれる。だけど犯罪を犯してもつかまらなかったとしたら? 誰にも罰せられないという事はつまり、誰にも赦してもらえないという事よ。そして、誰にも赦してもらえなかった罪は……いつまでもその人を苛み続ける」
 由紀子さんは赦されたのだろう。
 二十四年たって、やっと見つかったその遺書によって。
 彼女の罪は、永い永い時間をかけて、やっと拭われたのだ。




6/事の終わり――明日への道程


「あ〜!! こんなところで二人で楽しそうに密会してるなんて!」
「密会って……リビングで話すのがどう密会なのよ」
 後ろから聞こえてきた大声に、香里は振り向きつつため息をついた。
 視線を向けた先には案の定、白い肌をホクホクと上気させ、薄桃色のパジャマに身を包んだ栞がたっていた。
「私がお風呂に入ってる隙に、抜け駆けですか〜!」
「抜け駆けってあなたねぇ……」
 思いもしなかったその言葉に、香里は軽い頭痛を感じた。
 その横から、祐一が……
「アレのどこが遠慮してるって?」
 とツッコミをいれてくる。
 確かに。香里は自分で言った言葉に自信が持てなくなりそうだった。
 でもこの自然で元気な笑顔も、祐一が居るからなのだと痛感している。
「あ、祐一さん。お姉ちゃん。アイス食べます?」
「秋なのに……って、冬でも食ってたか」
 風呂上りの日課であるアイスを取りに、キッチンへと向かう栞。そして愚痴りながらも律儀にその後を追う祐一。
 そんな二人を、香里はその場から動かず、眺めた。
 端から見れば仲の良い兄妹のようにも見えるし、恋人のようにも見える。
 だが、香里にはむしろ、それ以上の関係に見えた。表面的な部分ではなく、もっと心の深いところで繋がっているように見えた。
 香里にはまだ触れることの出来ない領域で、二人は繋がっているのだ。
 それが、純粋に妬ましい。
「ほい、香里の分」
「ありがと」
 祐一が投げてよこしたアイスを受け止める。見ると、チョコミントだった。
 香里は数あるアイスの中でも、これが一番好きだった。ミントの涼しい口溶けにチョコチップの程よい苦味、そしてアイス本来の甘さ。この三つが上手く調和しているのが好きだった。
 もっとも、栞に言わせれば色々混ぜ合わせた邪道の味らしいが。彼女は、シンプル・イズ・ベストでバニラアイスが一番好きなのだ。
 それなのにも関わらず、これが美坂家にあるのは、やはり栞の優しさなのだろう。
 近くのスーパーから大量に仕入れてきたアイス用の木ベラを持ってきた祐一が、渡すときに小さく香里にだけ聞こえる声で呟いた。
「栞は……もうお前のこと、赦してるよ」
「……うん」
 頷きながらも、香里は違うと思った。
 確かに、栞は香里の事を赦しているのかもしれない。
 だけど、まだ自分は赦されているとは思えない。なにより、自分自身が赦される人間になれたと思えなかった。
(由紀子さんは二十四年かかった)
 さて。自分はどれくらいかかるのだろうか?
(別に何年かかっても構わない様な気もするけどね)
 永い時間がかかったとしても。いつかきっと、赦される自分になって見せる。

 遺された言葉ではなく、生きた彼女からの言葉で――――


〜了〜



あとがき


 第一回KANONSSこんぺ終了時から「続き書いてます」と明言しながら、結局出たのは第二回こんぺが終わった後……。
 しかも、出てきたのがこんなミステリファンの方なら一度や二度、三度も四度も見たことのある結末……(死
 いや、言い訳しておきますと、これは本来書いていた作品が詰まっちゃった物だから、慌てて穴埋め用に書き上げた作品なんですよ。
 なんと、着想から初期プロット作成までわずか十分(死
 聖書の所がちょっと手間取りましたが、結局数日で完成してしまいました♪
 
 一応、テーマは栞と香里。
 前回が美汐の心情であったように、今回も物質的トリックよりも心の密室に焦点を当てています。
 また、SSとしても楽しめるようにしたつもりです。
 ミステリとしても、物語としても難しくし過ぎずに、誰でも気軽な気持ちで読めて、ちょっとだけ何か考えてもらえるような……そんなお話になってると思います。
 あぁ……でも、ミステリファンの方には石投げられそうな酷いネタですよね。
 一応、ミステリ的思考をもとに、解決の手順は踏んだつもりなのですが……「こんなのミステリじゃない」といわれても文句言えません。

 と、泣き言はここまでにして……
 今回、実は数字の統一に挑戦しております。(遺書とカレンダーのあの数字に関しては記号的表現なのでノーカンです)
 これまで、変換ソフトの赴くままに勝手気ままな数字を出していたので、そういうのもちょっと改めようかなぁと。細かいところなんですけどね? 統一があったほうが見栄えが良いんじゃないかと思いまして。

 後、一応説明しておきますが、先天的に心臓に穴があいている病気は実在します。
 「先天性の心奇形」という奴で、統計では出生児の一%…つまり百人中一人がかかっているという病気です。
 …ただ、手術できない〜という設定は雨音の勝手な想像です。医学的知識の高い方、「ツッコミ&こんな病気がオススメ♪(ぉ」希望!!

 あ〜その他には……
 香里……今回は思いっきり安楽椅子探偵でした(笑
 今現在書いているのも、思いっきり安楽椅子探偵ですし……。
 ってか、普通の高校生がそんなに頻繁に犯罪に巻き込まれたりしないですからねぇ。仕方ないんです(苦笑
 
 さて、後書きはこれくらいにしておきましょう。
 この後に今書いてるヤツの予告編入れようかとも思ったのですが……やっぱり止めておくことにします。
 ただ一言……「呪いは実在するか」……です。

 でわでわ、次がいつになるか分かりませんが……それまでさようなら〜♪